「始業式は地獄の日々のはじまりだった。」30年経ち親となったいま、子どもにしてあげられること

家族・人間関係

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 30年経ち親となったいま、子どもにしてあげられること

2021.08.29

家事シェア研究家の三木智有です。 9月。夏休みを延期する学校もありますが、長い休みが終わり再び学校生活がはじまります。30年前。ぼくにとっては、この9月1日が1年の中でもっともゆううつな日でした。学校で「いじめ」を受けていたぼくにとって、始業式は地獄の日々のはじまりだったのです。

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「学校に行きたくない!」と言っても、ただ単に「夏休みの宿題が終わってなくてやばい!逃げたい(泣)」「せっかく家でダラダラできて最高だったのに、めんどく臭いー」なんてことから、「本当に学校がつらい」まで理由は様々です。

今日は、ぼく自身が学校がつらかった子ども時代にしてもらいたかったこと。そして、30年経ち親となったいま、子どもにしてあげられることについてお話します。

子どもを論破することに意味なんてない

親子の会話出典:stock.adobe.com

ぼくはよく「夫婦の対話は論破した方が負け」という話をします。簡単に言うと論破をするとお互いの気持ちに禍根を残すから。

子どもに対しても同じように「論破」することがいいとは思いません。
でも夫婦のときと、その理由は少し違います。

子どもは論破されると「自分の意見を言えなくなる」「自分を蔑ろにされた気持ちになる」と思うのです。ぼくは子どものころ親や先生に対して、そうした悔しさを持っていました。

「大人がひと度『ダメだ』と言ったら、子どもの自分の意見は意味を持たない」と。ただ、当時はそんな風に言葉にすることはできませんでした。言いたいことだって、ちゃんと大人に説明もできなかった。

さらに悪いのは「ダメなものはダメ。理由なんて関係ない。それがルールだから」という放棄された対話でした。

親になったいま。思わずそう言いたくなる気持ちもよくわかります。大人だってうまく説明できないときもあるし、子どもが何を言ってるのかよくわからなくて面倒なこともある。

それでも、子どもを論破するのは卑怯なことだとぼくは自分に言い聞かせています。

必要なのは、論破することじゃなくて「対話」することなんだと。

子どもにとって「親」は乗り越えなくてはならないもっとも身近で高いハードル

「親」は乗り越えなくてはならないもっとも身近で高いハードル出典:stock.adobe.com

対話は、どうしても「VS」になりがちです。「夫 VS 妻」「親 VS 子」というように。
たとえば「学校に行って欲しい親 VS 学校に行きたくない子ども」なんてのは、つらい対立構造。

こうした「VS」になってしまうと、どうしても対話は論破へと向かっていきます。「”行く”か”行かないか”」白黒をはっきりさせない限り議論に終わりが見つからなくなるから。

だけど、対話ってそういうことじゃないと思うのです。

「VS」すべきは「問題」なのです。

「親 VS 子」じゃなくて「親&子 VS 問題」にならないといけない。
親と子で一緒に協力しながら、学校に行きたくない、という問題に立ち向かう。そのスタンスが子どもにちゃんと伝わることが大切だと思うのです。

そうでないと、子どもにとって親はいつまで経っても「相談相手や協力者」じゃなくて「立ち向かい乗り越えるべき壁」になってしまう。

子ども時代のぼくにとって、親や先生、そして学校はまさに「立ち向かうべき壁」だったのです。

どうするかは「君」が決めることができる

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それをはじめて「協力者」になってくれたのが、高校時代に出会った塾の先生でした。
彼はぼくが「学校へ行きたくない」と愚痴をこぼしたとき「それじゃ、明日は一緒にサボって遊ぼう!」と自分も大学をわざわざサボって遊んでくれました。
カラオケに行ったり、ドライブしたり。

そして一緒になって「学校へ行きたくない」というぼくの気持ちについて考えてくれたのです。
その時はじめて「大人でも学校や仕事に行きたくないこともあるんだ」「ついついサボっちゃうこともあるんだ」と知りました。

そして「どうするかは、親や学校がじゃなくて、君が決めることができるんだよ」と教えてくれた。

その言葉が、どれだけぼくを救ってくれたかわかりません。
だから、親になったいま。自分が子どもに対してできるのは「一緒になって問題を解決してくれる親」になることだと、ぼくは考えています。

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