理解に苦しむ我が子の心
思春期を終え、仕事や家事、育児などのタスクを忙しくこなす中で、かつての記憶は蓋をされていきます。
途方のない悩みや失敗、挫折、自己嫌悪やコンプレックス、そして気恥ずかしくなるような志。
思春期の不安定で不確かな思いは、合理的かつ効率的な生活をする中で不要なものとなります。
いつまでも囚われ、迷い続けていたら地に足をつけて生きていけなくなってしまうからです。
そうして10数年過ぎると、多感な時期を生きている我が子を「わからないもの」と感じてしまいます。
よかれと思って提案したら「うるさい、放っておいて」。
考えを聞こうとしたら「別に、特にない」。
一緒に考える時間を作っても「どっちでもいい、どうでもいい」。
歩み寄り方がわからなくなると、親の方も「今の子は甘い」「思ってることあるなら言わなければわかるわけない」と苛立ってしまうものです。
そして、思春期の反抗を大人への挑戦として本気で対決してしまうときもありますよね。
一体、彼らの心の内には何が潜んでいるのでしょう。
「どうしたいの?」と聞いても口を閉ざす理由とは
「自分に何ができるのか」わからない
小学校高学年にもなると、個性がはっきりしてきて、各々の得意不得意が顕著になってきます。
そしてクラスのまとめ役や、プログラミングの天才、スポーツ万能な子など、得意な能力を発揮する子はクラスでも目立った存在となります。
一方何においても平均くらいの子は大多数を占めており、雑踏にまぎれている感覚。
できないところは”課題”として指摘されても、平均的にできているところには誰も目を向けませんよね。
そうした中で、「自分には何ができるのか、いや何もできない」思考になっていく子も多いようです。
そして親の何気ない言葉を拾い、「本当はもっと~だったらよかったんじゃないか」とネガティブな想像を広げてしまう。
友達との何気ない会話で言われた「あなたって~なタイプだもんね」が頭に残り、「自分ってどうやって見られているんだ?」と気になる。
手を抜かずに積み上げてきた努力に目を向け、褒める関わりが支えとなります。
「何がしたいのか」わからない
親の意見に対して子どもが「あれは嫌だこれは嫌だ」と言い始めると、親は「じゃあどうしたいの?」と尋ねますよね。
しかし子どもは何がしたいかを問われるとわからなくなります。
一度迷い始めると、今まで頑張ってきた習い事や部活・塾は親に言われて”やらされてきた”ものとなり、余計反発したくなります。
そうなると、親が決める道には進みたくない、敷かれたレールにはもう乗らない、とさらなる抵抗をします。
何にでもなれる。ただ、どうなるのが自分にとっての正解かわからない。
そうして右往左往している子どもの姿を見ていると、もどかしい気持ちにもなりますよね。
1人で歩き出す我が子の歩みはゆっくりですが、焦らず見守るしかないのかもしれません。
「自分らしさ」がわからない
今まで頑張ってきたものがこれからの道なのか。褒められた経験が糧になるのか。好きこそものの上手なれなのか。
ドラマでは、第一線で活躍し仕事と家庭を両立する女性や、男性と同じように現場で働く専門職が映し出され、女性起業家が主人公となる作品もでてきました。
進路の選択肢が増え、努力次第で才能が開花できる時代だからこそ、悩む子が増えています。
「自分らしく生きよう」は、人生の選択肢を広げてくれる言葉である一方で、自分がわからない子にとっては窮屈な言葉なのかもしれません。
秀でた才能や優れた特徴は誰しもが持っているわけではない。
目の前にあるタスクをこつこつこなす力も、尊ばれるスキルである。
そんなメッセージを伝えながら、縁の下で社会を支えている役割に目を向けるのもいいかもしれません。
必要なのは「自立」ではなく「自律」
一人で生きたいけど力は未熟。放っておいてほしいけどどうすればいいかわからない。
そんな我が子を前にするとついつい手を差し出したくなります。
しかし親がずっとレールを敷くわけにもいきませんし、かといって野放しにしておくのも違います。
「自立」の前に、まず「自律」を意識するのが大切です。
いきなり自分だけで責任を負おうとするのではなく、まずは周囲の手助けを借りながら進んでいく必要があるんです。
ある程度の規範や指針を身に着け、徐々に一人立ちしていけるといいんじゃないでしょうか。
彷徨う10代を、温かく広い器で受け止めていけるといいですよね。