息子が緊急搬送され、30年以上も強く根付いていた私の「人生の価値観」が変わった話

カルチャー

2022.03.19

息子が緊急搬送され命の危機にさらされてから、私の価値観は変わった。母になる前も、なってからも、仕事での自己実現を目標に走ってきた。努力して行動し続けることが自分を認める手段であり、幸福の条件だった。でも、生と死のはざまに触れてからは、幸福の物差しが変わり、未来ではなく今を見るようになった。30年以上も強く根付いていた価値観がガラリと変わった理由とは。

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救急車にて、生と死のはざまを見た

救急車出典:stock.adobe.com

息子が救急車で緊急搬送された。寝ている間に呼吸障害が起きたようで、気づいた時にはすでに口をぱくぱくさせ、意識がなかった。何の予兆もなく訪れた異変だった。

救急車の中では酸素濃度が下がり、必死に名前を呼んだ。冷静であらねばと思ったが、とてもそんな余裕はなく、正気を保つのに精一杯だった。できるだけ明るい声をかけながらも涙がとめどなくあふれ、マスクは形状を保てないほどびしょびしょになり、目は情けなく腫れた。

私は出産以外に入院経験がない健康体で、身近な人が亡くなった経験もないから、死にきちんと向き合ったことがない。ニュースで流れる大きな不幸や病気は現実味がなく、対岸の火事のように茫洋としていた。

今回、息子の命がゆらぐのを目の当たりにして、生と死が隣り合わせであることを初めて体感した。同時に、これまで健康を前提にしていた私の価値観がガラガラと崩れていった。
 

愛する息子がいない日々は泣くばかり

息子は一週間ほど入院したが、コロナの影響で面会は禁止。意識が戻った息子に「必ず迎えに来るからね」と伝えようとしたが、そばを離れるそぶりを見せると号泣するので喉がつまり、きちんと説明できなかった。「入院」という言葉も知らない2歳児にどう伝えたらいいかもわからない。

眠る息子

ぐずる息子をなんとか寝かしつけて、ひっそりと病室を出る。目尻に涙を浮かべたまま眠る息子を置いて帰るのは、心が引き裂かれるようにつらい。目を覚まして見知らぬ病室に一人きりだと気づいた時、置き去りにされたと思わないだろうか。「ママ」と叫んでわんわん泣く姿を想像すると、ぼろぼろ涙が出た。

最終的には子どもによくみられる熱性けいれんだろうと診断されたが、微熱で長時間の呼吸障害を発症しており、一般的な症状(高熱による短時間のけいれん)とは異なっていたため、精密検査の結果が出るまでは原因も入院期間もわからず、とにかく不安だった。

息子が入院した夜にベッドに入ると、いつも隣にあった小さな体温がぽっかりと抜け落ちていて、夫といっしょにぐずぐず泣いた。
 

努力を信じて疑わない。未来へ向かう「力重視の価値観」

私は小さいころからそこそこ器用で、あまり苦労せず育ってきた。進学校に入ってからは自分よりできる人間ばかりで身の丈を知ったが、怠け癖があったから、何かしらができなくても「自分が然るべき努力をしていないからだ」という納得感があり、どうしようもない理不尽を感じる機会は少なかった。

それゆえに自分にも他人にもやや厳しかった。自他ともにできないことがあると「努力が足りないだけ」と決めつける節があり、自己責任だと一刀両断した。現状に不満があるなら行動すればいい、そして実力をつければいい。すべては行動次第なのだと。

だから子どもを産んで母親になってからも、できる限り行動し続けた。退院当日から仕事復帰し、稼いだ金でベビーシッターを依頼し、せっせと働いた。母親になったからと言って、今まで続けてきたことをあきらめたくなかった。育児をしていたって、女だって、努力すればできるのだと証明したかった。

仕事をする女性出典:stock.adobe.com

積み上げた過程を、運とかセンスとかいったラッキーパンチとして片付けられたくない。けして恵まれているわけじゃない、私が産前と近しい生活を送れるのは、それだけ努力しているからなんだと。

努力さえすれば必ずうまくいく、もっと上に行ける。そう信じて仕事の実績を積み上げ、右肩上がりに階段をのぼり、自己実現の道をひた走った。それが私の幸福であり、脊髄を貫く価値観だった。

生きているだけでいい。今を愛する「命重視の価値観」

この価値観が間違っているとは思わない。自分の行動次第で現状は変えられる、足りない力も補えると信じることは前に進む意欲になるし、救いにもなる。

しかし、息子が入院した大学病院の風景を見て価値観が変わった。昨日まで元気に走り回っていた息子の腕に管がつながれている。20代くらいの男性が点滴をカラカラと引きながら売店に行く。小学生くらいの女の子が車いすを押されながら病室に入る。ぼんやりと、しかしありありと、努力ではどうにもならないことがあるのだと思い知った。当たり前の日常を奪われた人々が、ただの努力不足だとは思えない。

自身の行動にかかわらず、否応なく突きつけられる理不尽がある。世の中には、救われない無念が存在する。

息子が生と死のはざまにいた時、はっきりと「仕事なんてどうでもいい、とにかく息子が元気になってくれればいい」と思った。これまで価値観の支柱だった仕事が、どんなにしんどくても続けてきた仕事が、自身の存在証明だった仕事が、心底どうでもよくなった。

命が最優先なのは当たり前だが、生活の根幹にあった仕事を「どうでもいい」と感じたことは衝撃だった。お金とか、地位とか、名誉とか、全部どうでもいい。すべては命ありきで、この体に生がなければ、生活に愛しい命がなければ、私の幸福は、いや人生は成り立たない。

親子の手出典:stock.adobe.com

力重視の価値観が、命重視の価値観に変わっていく。健やかな命育めるなら、極論、力なんてなくてもいい。自分や大切な人の健康のために「何もしない」「あきらめる」があっていい。

勇み足で仕事して上り坂を走っていたが、今は平地をゆっくり歩いている。ここには私の息づく体が、目の前には愛しい命がある。これを幸せと呼ぶのだろう。物足りない気持ちはあれど、当たり前の日常をもう少し愛してみよう。今を愛することが幸せに生きる手段であり、ゆるがない生命力になるのかもしれない。
 

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著者

秋カヲリ

秋カヲリ

だれもが自己受容できる文章を届けたい文筆家。女は生きにくい、だからしなやかに生きたい。 ・著書「57人のおひめさま 一問一答カウンセリング 迷えるアナタのお悩み相談室」(遊泳舎) ・恋愛依存症に苦しみ、心理カウンセリングを学ぶ ・出産して育児うつを経験、女の幸せを考える ・ADHDなどのグレーゾーンゆえに会社員として適応できず、4社を転々としてフリーランスのライターに ・YouTuberオタクで、YouTuberの書籍編集・取材執筆多数

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