わたしは、みんなから大切にされている存在なんだ
子どもたちは、この授業を通して自分自身のことをよーく観察していきます。
鏡をじっくり見たり、親から生まれた時の話を聞いたり、友達同士でお互いの特徴を話し合ったり。
「あ、こんなところにホクロがあった!」
「わたしが生まれたとき、パパ泣いたの!?」
「わたしって、”勢いがある”って思われてるんだって!」
そうすると、なんとなくぼやけていた「ワタシ」という輪郭がはっきりとしてくるんです。
無自覚だった自分という存在に、手触りや重みが伴ってくる。
自分はこんなにも大切にされているし、見てもらってる。良いところも、悪いところも、色んなものが混ざり合って自分っていう存在ができている。
そんな実感を、1年生のうちに感じていくのです。
それは自分だけじゃなくて。
友達も同じ。自分が色んな人から愛され、大切にされているように。友達だってみんなそれぞれが大切にされて、愛されている存在なんだってことを知るのです。
君がすばらしい存在でることに、理由なんていらない
子どもが産まれたとき。
ただ泣くしかできなくて、親を寝不足にさせて、心配ばっかりさせて、不安な気持ちにもさせてきた君。
そんなはた迷惑な存在だったはずなのに、何よりも大切で愛おしくて、守ってあげたい存在だった。
それは、何かができたから故の愛情じゃなくて、ただただ存在そのものに対する愛おしさです。
その愛おしさは、いつしか当たり前になり、子どもがいつの間にか評価の対象になってしまっているとしたら、子どもにとっては辛いことかもしれません。
上手に走れたね。
テストで100点取れたね。
ピアノが上達したね。
お手伝いしたね。
お片付けできたね。
静かに我慢していられたね。
大人の基準で、評価されることをすれば子どもは褒めてもらえる。
褒めてもらえたら嬉しくて、もっと褒めてもらおうとする。
褒められる成果を出せなかったら、もう褒めてもらえない。
褒めてもらえない自分なんて。
子どもが、言葉にはしなくても頭の中でそんなモヤモヤを抱えてしまったら、こんなに悲しいことはないなと思う。
このI’m special. You’re special の授業は、ぼくたち親にも、「子どもを無条件に愛すること」を思い出させてくれました。
「褒める」より「喜ぶ」へ
ぼくは家事シェアのコミュニケーションの話をするときによく「”褒める”よりも”喜ぶ”ことが大事」と言います。
褒めると、喜ぶの違いってなんでしょうか。
褒めるとは、評価のことです。
「上手にごはん作れたね」「キレイに掃除できたね」それは、相手を認めているのではなくて「出来栄え」を認めていることになります。
もちろん、とても大切なことだし、言われたほうだって嬉しいのは間違いありません。
でも、たとえば全然料理ができないパパがママの料理に対して「今日の煮物は上手にできたね」なんて言うと下手をすると「どの口が言ってんだい!」と思われることも。
また、毎日のことをいつもいつも同じように褒めると、嘘っぽく聞こえてしまったり、褒めるところを探すのも大変になってきたりします。
それに対して「喜ぶ」とは、自分の気持の表現です。
相手が上手にできたかどうか、じゃなくて「うれしい」「ありがたい」「助かった!」などなど。
相手の評価をしないでも、感謝と気持ちを伝えられるのが「喜ぶ」のいいところ。
これは、家事シェアに限らず子どもに対しても、とっても大切なコミュニケーションのひとつだと思っています。
子どもは喜んでもらうのが大好き!
子どもに限りませんが、喜んでもらうというのは、ものすごく自己肯定感を高めてくれます。
「テストで100点取った」から得た自己肯定感よりも。
「自分がいるといつも両親が喜んでくれる」という自己肯定感の方がゆらぎなく強力じゃないかなと、ぼくは思います。
だから。
ぼくは娘を褒める何倍も、喜びを伝えるようにしています。
妻は、毎日つくるぼくの料理を心から喜んでくれます。
娘は、一緒に遊べることを、ダンスしながら喜んでいます(笑)
喜びの歯車が、ぐるぐると回っていると、とても幸せな気持ちになれるなと思うのです。