以前、一時保育に娘を預けるために行ったとき。
「ママお仕事だから、ごめんね。なるべく早く迎えに来るからね」
と言いながら保育士さんに「すみません、よろしくお願いします」と頭を下げながら足早に立ち去るママさんとすれ違いました。
その姿を見て、少し懐かしい思いがよぎりました。
わが家も、娘が生まれたばかりの頃から保育園に預けていました。そして、預けるたびにギャン泣きする娘を渡しながら「一緒にいてあげられなくてごめんね」と思っていたのです。
でも、ある出来事をきっかけに「ごめんね」とはまったく思わなくなったのです。
「親」である自分を過信していたことに気がついた
ある時、仕事が早く終わりちょっと早めにお迎えに行けた日がありました。
「パパーー!!」と喜びながら来てくれるかなと思いきや、娘は「もっとあそぶ!」と。
朝とは打って変わって、今度は「帰りたくない!」とギャン泣きです。
預けても泣いて、お迎え行っても泣いて。
こりゃあ困ったもんだと、まだパパ1年生くらいだったぼくは途方にくれてしまいました。
その後、保育園の保護者見学会に参加。
そこでぼくは、娘が「帰りたくない」とグズる理由が垣間見えたような気がしました。
そこでは、お友達とはしゃぎまわり、先生たちとゲームをし、わくわくドキドキの読み聞かせをしてもらい、音楽を聞いたり踊ったり歌ったり。
むしろ「すまん、家ではこんなに全力でたっぷり遊んでやることはできん」といい意味で打ちのめされました。
ある意味「親である」という自分を過信していたことに、気が付かされたのです。
自分の子がいろんな人にたくさん愛される姿が、こんなにも嬉しいなんて思いもしなかった
時は流れ、わが家は東京の保育園から京都の幼稚園へと引っ越しました。
その幼稚園も卒園。今度は東京の小学校へ入るため、再びの移住になります。こうした2度の移住と卒園を通して、娘はたくさんの涙の別れを経験しました。
卒園していく娘に「またいつでも帰ってきてね」と言いながら、何度もハグをしてくれる先生たち。子どもたちも「会えなくなるのさみしい」と言いながらいっしょにはしゃぎまわったり、ふざけあったり。
保育園も、幼稚園も。
「行きたくない!」と大騒ぎする日だってありました。別れ際に、ずっと寂しそうにこっちを見てるような日だってたくさんある。迎えに行ったら「もっと早く迎えに来て」と泣きつくような日だってあった。
親としては、そういう日の印象は強く残るもの。
でも、保護者参観などを通して見える日常は、子どもにとってとても楽しい日常でした。「行きたくない」ってグズったって、お別れした10分後にはケロリと先生の膝の上で遊んでたりするもんです。
そうやって家族以外のコミュニティを育み、その中でめいっぱいわが子が愛されている姿をみることが、こんなにも幸せな気持ちになるんだってことを知りました。
子どもを預けることは、ちっとも「ごめんね」なんかじゃない
一時保育だって、同じだなと思います。
親と遊ぶのとはまた違った遊びができたり、学びがあったりする。
むしろ、このコロナ禍で預けることができず、家で一緒に過ごしながら仕事もしなくちゃいけない、という状況の方が何倍も「ごめんね」でした。
子どもを預けることはちっとも「ごめんね」なんかじゃない。
家族以外のコミュニティを築き、楽しい時間を過ごすことができる素晴らしい機会ですらある。
そうした中で、たくさんの人にわが子が愛されていく姿を見ることは、親としてもとても嬉しいことだったりします。
もう、子どもを預けるときに「ごめんね」なんて言わないで欲しいなと思うのです。