
第232回 伊澤直美(78)まだ始まってもいなかった
レジカウンターの内側に置かれた椅子に優亜と並んで腰を下ろし、直美は見るともなくウィンドウの外を見ている。
暑さのせいか、外を歩いている人は少ない。歩いている人も、暑さから逃げるように急ぎ足だ。
店を開ければお客さんが目を留める。足を止める。ドアを開けて、入ってくる。そのうちの何人かは品物を買って帰る。
そんなことを思っていた。誰もドアを開けないことは想定していなかった。
見通しが甘い。マダムさんの店に来れば、いつだってマダムさんが笑顔で迎えてくれると思っていた以前の直美と同じだ。
自分のことだと、こんなに楽観的にはならないのに、優亜と一緒だと、気が大きくなる。人生のモテ期にある子どもの人気に便乗して、自分も歓迎されていると勘違いしてしまう。
だから、今日だって、優亜と一緒に店番すれば、マダムさんよりもお客さんを集めてしまうのではという自惚れがあった。
なのに、ドアは開かない。
「お店やさんごっこみたいなノリでいいの?」
出かける前、イザオにそう言われた。この状況を見たら、そら見たことかと勝ち誇るだろう。
お客さんのいない、お店やさんごっこ。
横浜の佐藤千佳子さんが企画したハーブマルシェをプレゼンされたときに、「ごっこ」という印象を持ったことを思い出す。
待ち合わせに指定されたのはパンケーキの店だった。甘いものはアイスブレイクに効果的だが、クリームたっぷりのデコレーションパンケーキでは必要最小限の氷まで溶かしきってしまう。
企画書には、あれしたい、これしたいが並んでいるだけで、予算もスケジュールもなかった。マルシェというよりバザーだ。フリマだ。スーパーマルフルの店舗前をマルシェ会場にするという話だったが、スーパーに買い物に来る客がそのままマルシェの客になるという読みも甘い。
直美が勤めるマルフル食品がマルシェに関われないかという相談だったが、持ち帰った企画書を社内で共有することはなかった。
あのとき、プレゼン資料を見せながら、佐藤さんは以前オンラインでの消費者インタビューで直美が彼女に言ったという言葉を語っていた。
「商品が棚に並ぶって、ポジションの取り合いじゃないですか。競争に勝つ商品がいれば、敗れる商品もいて、日々入れ替わるんですけど、それぞれの商品に親がいるんですよね。できる限りのことをして送り出してあげたいって直美さんがおっしゃってたの、親が子を想う気持ちそのものだなって」
そんなことを言ったっけと思った。消費者の言葉をインタビュアーとして引き出す立場だったのに、自分語りをしていたというか。
子どもを持つかどうかでイザオとすれ違っていた頃だ。妊娠、出産、育児で立ち止まるわけにはいかないと宣言したい気持ちがあったのだろうか。
レジを打っている佐藤さんより、棚に並ぶ商品を開発する自分のほうが、替えのきかない仕事をしている。そんな思い上がりもあったかもしれない。
ドアは、まだ開かない。
エアコンで冷やした空気は逃げないし、外の熱い空気は入って来ない。店内がどんどん冷える。足元から体が冷えていく感覚は、室温のせいだけではない。
わたしこそ、商売というものをわかっていなかった。
店にお客さんが来ることは当たり前で、そこに自社製品をどれだけ並べられるかを頑張っていた。棚に並べてもらうこと、そのスペースを確保し続けること。できるだけ広く、できるだけ長く。
店にお客さんがいることは当たり前だと考えていた。

「お客さん来ないね」
そう言いかけて、後ろ向きなことは言いたくないなと思い直す。
隣の椅子に腰を下ろして絵本を見ている優亜は、この状況をどう思っているのだろう。
「マダムさんのおみせ、ママとひとりじめだね」とか?
ふたりでも「ひとり占め」なのだろうか。
優亜が開いている絵本には、シンプルな線画で動物たちが描かれている。文字はアルファベットだが、英語ではない。どこの国の言葉だろうか。優亜は今日も頭の中でおはなしを作っているのかもしれない。
マダムさんが入院していると知った今年の春、時間が止まったような店内をショーウィンドウの外から見た。マダムさんに何かあったのではと直美は悪い予感を募らせていたが、優亜は小鳥のオーナメントを見ながら、おはなしを作っていた。
「まちがえてもだいじょうぶですよ。たのしんでやりましょう。ダンスをわすれたら、すきなようにからだをうごかして、にこにこしていましょう。にこにこするのもダンスです」
ことり保育園のマダム先生が、お楽しみ会の本番前の園児たちに優しく語りかけるおはなしだった。
ショーウィンドウの外から見ていた小鳥のオーナメントを、今日は中から見ている。
店番のバイト代について、マダムさんと話はしていない。もし、何かお礼をと言ってもらえたら、あの小鳥をと言ってみようか。
でも、びっくりするようなお値段だったりして。
小鳥に近づいて値札を見てみようと直美は立ち上がり、レジカウンターの外へ出る。背後で絵本をパタンと閉じる音がして、優亜が言った。
「おみせやさん、はじめるの?」

え?
文字で効果音をつけたくなるくらい、「ガクッ」となった。
こんなはずじゃなかったと直美は反省会を始めていたのに、優亜ときたら、まだお店やさんを始めていなかった。
店に入ったとき、「CLOSED」の札をひっくり返して「OPEN」にしたが、それでは始まりの合図にならないらしい。
「お店やさんって、どうやって始めるんだっけ?」
「えーっ、ママしらないの? おみせがはじまりますよって、おしらせするんだよ」
ここに来る途中、幼児教室の体験会をやっていますとチラシを配っていた。優亜は、それを思い出しているのだろう。
「そっか。マダムさんのお店、ずっと閉まってたもんね」
もしかしたら、優亜はマダムさんのお店の留守番ではなく、マダムさんのお店を借りて、新しいお店を始めると思っているのかもしれない。
そのときドアが開いて、「こんにちは」と聞き覚えのある明るい声がした。
そうだった。「ごっこ」だと思っていた佐藤さんのプレゼンで思いがけない収穫があったのだ。
企画書のイラストに描かれていた緑のエプロンの女性が、ハーブコンシェルジュのマイさんだというではないか。
佐藤さんに連絡先を教えてもらい、ハーブを使ったレシピ開発に関わってもらえないかと相談した。打ち合わせの日程を調整している間に社内で方向性の変更があり、ご一緒することは叶わなくなった。
電話でお詫びすると、マイさんは爽やかに言ってくれたのだった、
「根っこは残しておきましょう」
そのマイさんが、ドアを開けて入ってきた。
この近くにお住まいなのだろうか。いや、佐藤さんの近所のはずだ。佐藤さんがパートしているマルフルに買い物に来ていると聞いている。
偶然通りかかったのではなく、わざわざ横浜から来てくれたということか。
「これ、うちの農園で採れた枝豆です」
マイさんが持ち上げたビニール袋に、さや入りの枝豆が詰まっている。差し入れということだろうか。ありがとうございますと手を伸ばし、袋を受け取る。
「えだまめ!」と優亜が声を弾ませ、椅子から立ち上がった。体の前で絵本を抱いている。
「何ちゃんですか?」とマイさんが聞く。
「ゆあちゃん」と優亜が答える。
「ゆあちゃん、枝豆好き?」
「すき」
「とれたての枝豆、きれいな色してるでしょ」

「えだまめ、くばる?」
優亜が直美の顔を見て言った。
「枝豆を配る?」
マイさんが聞き返す。
「ちょうど今、お店やってますってチラシを配ろうか、なんて話してたんです」
直美がそう言うと、マイさんは、あははと笑った。
「ノベルティですね。チラシよりお客さん呼べますよ。ゆあちゃん天才」
そこに近づいてくる親子がショーウィンドウ越しに見えた。お母さんと中学生くらいの男の子。
マイさんがドアを開けて、親子を呼び止めた。
「枝豆、むいて行きませんか?」
なるほど。枝豆を店の前で配るのではなく、むいて行ってもらうなら、店に入ってもらえる。
優亜も元気よくマイさんに続いた。
「えだまめ、あります! きれいなえだまめ、あります!」

次回8月29日に多賀麻希(77)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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