第4回 伊澤直美(2) どっちが産むか選べたらいいのに
「子どもどうするって急に言われてもねー」
会社の昼休み、直美は同期入社の田沼深雪をランチに誘った。頭の2文字と最後のひと文字をつなげてあだ名にする同期の内輪ルールで「タヌキ」と呼んでいるが、見た目は猫に近い。それも血統書つきの高級猫。有名私大のミスコンで準ミスになった美貌の持ち主だ。
昨夜、イザオは酔った勢いで、実はずっと子どもが欲しかったけど言い出せなかったと言い、早ければ早いほどいい、できるだけ早く産んで欲しいと頭を下げた。なぜか涙ぐんでいて、直美は一気に酔いが冷めた。
「頼まれたからって産めるものじゃないよね?注文を受けて料理出すのとは訳が違うんだから」
直美が言うと、絶妙なタイミングでミラノ風カツレツが運ばれて来た。ナイフとフォークで切り分けると、立ち上る湯気とともにチーズがあふれ出す。今日も揚げたてだ。ひと口ほおばると、サクサクの衣とチェダーチーズのコクと肉の旨味が口の中で溶け合う。同じものを頼んだタヌキと「至福〜」と笑い合った。
「してる?」とタヌキが3文字で聞いて来た。「ないね」と直美も3文字で答える。
イザオとは結婚前からすでにセックスレス気味だった。結婚前の8年の同棲期間の前半で一生分を済ませてしまった感がある。結婚3年目になって新居に引っ越した日、場所が変わって気分が変わったのか、荷ほどきをしている直美に手を伸ばしてきた。一年前の今頃。それが最後だ。
「種も蒔いてないのに収穫するって手品ですかって、こっちも酔いにまかせて絡んだわけ」
「タネってウケる。で、どうなったの?」
「久しぶりにその気になったんだけど、そのまま酔いつぶれちゃった」
「タネ蒔き、不発かー」
ただでさえ華やかな容姿で店内の視線を集めているタヌキが、よく通る声で「タネ」を連発するので、直美は話題を変えた。
「マトメがイザオに泣きついてたよ。タヌキが指輪受け取ってくれないって」
同期入社のマトメ(的場始)はタヌキに何度も振られた末に、直美とイザオの結婚披露宴の3次会で口説き落とした。「30代になって市場価格が急落したとこを狙い撃ちされた」とタヌキは嘆いていたが、あれから4年続いている。親元暮らしで箱入り娘のタヌキと旅行もままならないマトメは、早く結婚して一緒に暮らしたがっているのだが、タヌキは煮え切らない。
「まだ掘り出し物が出るかもって期待してる?」
「それはないけど。やっぱ結婚って面倒だよね」
「そんなことないよ。ふたりで暮らすの楽しいし、何かとラクになるし」
「3人になったら?」
タヌキに聞かれて、直美は黙る。話題が「子どもどうする?」に戻ったところで、食後のコーヒーと追加で頼んだプチデザートが運ばれて来た。
「イザオがさ、子育ても分担するからって言ったんだよね」
「言いそう」
産んでくれたら後は何でもやるとイザオは言ったのだ。だから、そこまでは頼む、と。
「妊娠出産は夫婦で分担できないっての!わたしが 産むしかないの!授乳も母親にしかできないし!」
「母乳じゃなくて、粉ミルクで育てる道もあるけど」
「でも、9か月も大きなおなか抱えて通勤できない!」
「ま、膨らむのは後半何か月だけど」
「産むの絶対痛いけど、イザオに代わってもらえないし!」
「それは終わる痛みだし。無痛分娩もあるし」
直美の心配のひとつひとつに、タヌキは「なんとかなるよ」的な返事をしてから「知らんけど」と関西弁でおどけて笑った。「知らんけど」と直美も笑った。
「でも、男は最初っから、知らんけど、だからね」とタヌキが言い、「そこ!」と直美が食いついた。
「男は何も変わらない!おなかも大きくならないし、おなかの子を守らなくていいし、産む痛みも味わわない。妊娠出産で振り回されるのは女だけ!」
妊娠出産だけじゃない。それにまつわる不便も不安も不快も夫は分担できない。妻一人が引き受けることになる。
「そこまで考えてから、子どもどうする?って言って欲しいよね!」
直美が勢い込んで言うと、
「やだ、いたの?」
タヌキが驚いた声を上げた方向、レジの前にマトメがいた。その向こうに立ち去るイザオの背中が見えた。会社から離れた店にしたのに、よりによって同じ店にいたとは。
そう言えば、昨夜、イザオの作ったカリフラワーのチーズ焼きをおかわりしながらチーズ愛を語り、「あの店のミラノ風カツレツがおいしい」と話題にしたことを直美は思い出す。
「そっちの話は聞こえてなかったけど、多分、同じ 話、してたと思う」
タヌキに手招きされたマトメがテーブルまで来て、 直美に告げた。
「イザオ、昨日の話、覚えてたんだ?」
「酔ったフリして切り出したけど、子どもなんていらないってバッサリ斬られたって」
「いらないとは言ってないって」
直美が言い返すと、マトメが言った。
「先週白組会やったとき、マツリに急かされたんだよ」
マツリ(松井政則)に子どもが生まれ、同期の男子会、通称「白組」で出産祝い飲み会を開いたら、「お前んとこも早く作れ」発言が出たらしい。
「イザオは、うちはまだまだって言ってたんだけど、マツリに、子育ては体力勝負だからスタートは早いほうがいいって言われて、焦ったんじゃないかな」
それだけ言って、マトメは先に店を出た。イザオをかばったつもりらしいが、直美は、むしろ追い討ちをかけられた気持ちになり、「やっぱり男は他人事だよね」と冷めたコーヒーをすする。
「ハラミは、子どもを持つ気はないの?」
「この先、いつかは持ちたいとは思ってるけど」
「いつかっていつ?」
「今じゃないかなって」
「でも、私たち、もうすぐ35だよ。マルコー突入だよ」
少し前まで35歳を過ぎると「高齢出産」と言われた。産むならそんなに待っていられない。そんなこと、わかってる。だけど、サークルの勧誘みたいなノリで、始めるなら早いほうがいいなんて、軽々しく言わないで欲しい。
「どっちが産むか、選べたらいいのにね」
タヌキの言う通りだ。涙ぐむほど子どもが欲しいのなら、イザオが産めばいい。名刺の名字は夫の姓か妻の旧姓を選べるようになっても、妊娠出産は夫か妻かを選べない。
テーブルに置かれたメニューに目をやる。イザオもミラノ風カツレツを注文しただろうか。ランチは同じメニューを見て、同じ選択肢から選べるのに。なんだよ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第5回 多賀麻希(1)「派遣切りのたびに削られる」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
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