第182回 佐藤千佳子(62)それぞれの空を見上げて
梅も桜も蕾はまだ開いておらず、人もまばらなのではと予想していた新宿御苑は、思ったよりにぎわっていた。葉を落とした木々は寒々しく、芝生は枯れて茶色いが、陽射しは明るく温かく、春が近いことを感じさせる。
芝生にビニールシートを広げ、ピクニックをしているカップルがいる。若いなと千佳子は思う。その視線に眩しさと親しみが混ざる。さっきまでのわたしたちの時間も芝生ピクニックみたいな非日常だった。その余韻が火照りのように残っている。
「ふふっ、まだいる」
同じことを考えていたかのように、サツキさんがコート越しにおなかをさすった。
「いますね」と千佳子もコート越しのおなかをさする。新宿三丁目のカフェから十数分歩いても、シュークリームで満たされている。
クリーム待ちのシューに何を詰めるか、エチュードのような会話がひとしきり盛り上がったところに、シュー皮を焼くのとは違う甘いにおいが漂ってきて、カウンターの中でマスターがカスタードクリームを煮詰めていた。クリームの熱が取れるのを待ちきれず、「温かいまま挟んで食べたい」とマキマキさんが言い、「りんごあります?」とサツキさんが言った。アップルパイみたいにカスタードと甘く煮たりんごを合わせてみてはという提案だった。
「砂糖待ちのりんご、あるで」
マスターがりんごの芯をくり抜いて輪切りにし、砂糖で煮た。仕上げにブランデーをドバドバと加え、「アルコールは飛ぶから大丈夫や」と豪快に言った。適当に作っているように見えたのに、「端っこ食べてみる?」と差し出された切れ端を味見させてもらうと、目を見張る完成度だった。
「気まぐれ料理のクオリティが高いのは、腕もセンスもバツグンってことです」とサツキさんがベタほめした。
「アイスって、あったりしますか?」
kirikabuのりんごのパンケーキにアイスクリームが添えられていることを思い出した千佳子が恐る恐る聞いてみると、
「ええな! アップルパイアイスシュー。ちゃうか、アップルパイシューアイス。どっちでもええな」
マスターも乗ってくれたが、冷凍庫にアイスのストックはなかった。
モリゾウさんが「買ってきます!」と言うなり店を出て、カップアイスを両手に一つずつ持って戻ってきた。店の数軒先にあるコンビニで調達したという。
「下宿で鍋してて、卵買いに行く学生みたいやな」とマスターが笑った。
学生の頃にそういう経験しなかったな、と千佳子は思い、この年になって学生みたいなことをしてる、と愉快になった。
シュー皮の内側を温かいカスタードクリームで満たし、輪切りのりんごの砂糖煮を重ね、その上にバニラアイスをのせ、さらに「追いカスター」をのせ、シュー皮のふたをかぶせると、背の高いシュークリームが完成した。
「ハンバーガーみたい」
マキマキさんと声が重なり、千佳子は顔を見合わせて笑った。
「シューの上と下が織姫と彦星になってる」とマスターが言うと、
「カスタードとりんごとアイスが天の川なんですね」とサツキさんが言い、
「ミルキーウェイ」とモリゾウさんが渋い声で言った。
お代わりしてもシュー皮はまだまだ残っていて、モリゾウさんがもう一度コンビニへ走り、アイスと一緒にバナナやプリンや缶詰のあずきを買ってきた。
「闇鍋シューやな」とマスターが苦笑いした。
誰が何を言っても笑って、どんどん楽しくなった。サツキさんは千佳子以上に楽しそうだった。
「実は、ちょっと心配してたんです」
枯れた芝生の上を歩きながら、隣を歩くサツキさんに言った。
「サツキさん、本読み隊で大変だったじゃないですか」
2月の本読み隊は、中学校受験で学校を休む子が多いので、6年生は登校している児童が1組の教室に集まり、始業前の10分と1時間目の授業を使って拡大読み聞かせを行った。サツキさんと千佳子で受け持ち、子どもたちには好評で、先生方にも感謝されたのだが、「受験しなかった子たちだけズルい」と言ってきた保護者がいた。
一人だけだったが、厄介な人だった。6年生の読み聞かせを担当したのが「部外者」で、「宗教や危険思想の押しつけの危険もある」と難癖をつけてきた。卒業生の親で在校時は活動メンバーだったし、部外者でも危険思想の持ち主でもないのにと動揺したし、傷ついた。事情を知った校長先生に「謝っていただく必要はありません」と労われたが、それは当然で、こっちが謝って欲しいんですけどとモヤモヤした。
今年度の本読み隊活動は2月までとなり、今後のことは4月からの次年度に見直されることになった。
「サツキさんは、もっとショックですよね。本読み隊を復活させたいって、あんなに頑張ってくれたのに」
「寝転がってみる?」
サツキさんは返事の代わりに唐突な提案をして、千佳子の返事を待たずに芝生にゴロンと転がった。
戸惑いながら千佳子も続く。陽射しに温められたのか、土に蓄えられた温もりなのか、コート越しの芝生を温かく感じた。
視界いっぱいに空が広がる。シュークリームみたいな雲があるなと思ったら、「似てる」とサツキさんが指差した。
「似てる」と千佳子も繰り返す。
シューにクリームを詰めて、サツキさんとの距離も詰まった気がする。余計なことを考えず、余計な力を入れなくていい。このくつろぎは、芝生に寝転がっているせいだけじゃない。
空白を会話で埋めようとしなくていいから、しばらく黙って空を見ていた。
いろんな音が降ってくる。風が葉っぱを揺らす音は、頭の上から。スマホのカメラで写真を撮る音は、足のほうから。日本語や外国語のおしゃべりも聞こえる。
英語。中国語。韓国語。たぶんイタリア語。何語なのか予想のつかない言葉。
観光で東京を訪れている人たちだろうか。目にした木々や、さっき食べたランチの感想を言い合っているのだろうか。ケンカしている人も怒っている人もいなくて、何を言っているのかわからないけれど、聴き心地の良い会話が交わされている。
英語はところどころ聞き取れる単語が顔を出す。そこだけ色がついたように、ハサミで切り抜いたように、くっきり聞こえる。パセリ先生の動画講座を何周も見て覚えた“explore”という単語が聞こえ、「探検する」という意味だと思い出す。シブヤを“explore”すると言っている。観光で見て回ることを“explore”と呼んでいるらしい。旅先の初めての道を歩くのは、確かに探検だ。
知っている単語がパズルのピースを埋めていく。知っている単語がもっとふえたら、パズルが埋まって絵の全体像が見える。パセリ先生の講座をまた観なきゃと千佳子は思う。最後に観たのはいつだっけ。視聴習慣を離れると、観ないことが習慣になってしまう。
動画の中の人だったパセリ先生が地元に引っ越してきて、パート先のスーパーに買い物に来るようになって、距離感が変わった。おかしくなった。次にパセリ先生の英語講座を観たら、今日のシュークリームを思い出してしまいそうだ。
「大丈夫」
左側からサツキさんの声がした。独り言のような、千佳子に話しかけているような、小さなつぶやき。
「あのママのこと気にしてるなら」
つけ加えられたその言葉で、本読み隊に難癖をつけてきた6年生の親のことを言っているのだとわかった。
「あんな風に言う人のこと、よくわかるの。だから平気」
「サツキさんって、強いですね。しなやかっていうのかな」
「それは、かいかぶりすぎ」
サツキさんはそう言ってから、「開花はまだだけど、かいかぶり」とつぶやいた。
「開花はまだだけど、かいかぶり」
千佳子も口の中で繰り返す。
「私もね、最初はクレーマーだったの」
「え?」
「読み聞かせする時間あったら、ドリルやらせてくださいって」
その言葉が空に吸い込まれて、サツキさんは黙った。
「そうだったんだ」
声に出さず、千佳子は空に向かってつぶやく。
シュークリームみたいな雲は、同じところに浮かんでいる。何も聞かなかったみたいな顔をして。
次回3月15日に伊澤直美(61)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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