第57回 伊澤直美(19) もうキスしないかもしれない
1週間前から産休に入り、あと3日、あと2日、いよいよ明日とカウントダウンしながら予定日を待ち受けていたが、その日が来ても陣痛は来なかった。
次の日も、その次の日も。
「今日こそ会えるかな。パパ、すぐに駆けつけるからね」
会社に出かける前のイザオが「もしもしギア」を直美のお腹に当てて話しかける。お腹の上に切り替えのあるふんわりしたチュニックの下、冷え防止の腹巻をしたお腹は膨らみきり、お臍が張り出して平らになっている。
もしもしギアというのは、透明なゴムチューブの両端にプラスティックの漏斗をつけたもので、直美とイザオの間でそう呼んでいる。赤ちゃんに話しかけるのが胎教にいいと聞いて、100円均一ショップで材料を揃えた。材料費300円プラス消費税の赤ちゃん直通電話。
お下がりのベビー服を抱えて正月に訪ねて来た亜子姉さんが見つけ、「直美ちゃん、もう使ってるの?」と驚いた。
使うなら今じゃないのかと思いつつ、「イザオと毎日使ってます」と直美が言うと、「うわ、大胆」となぜか亜子姉さんは動揺した。
「夫婦で? 仲良いねー。照れない?」
「照れ臭いですけど、これを使うと、パパママモードのスイッチが入るんです。役者が衣装を身につけると役に入る、あの感じに似ているかも」
「アコネーもやってみる?」とイザオがもしもしギアを差し出すと、亜子姉さんは「無理、無理」と尻込んだ。代わりにイザオが漏斗の片方を直美のお腹に当て、「亜子おばちゃん、照れてる」と話しかけた。
「え? これ、そうやって使うの? だよね。母乳まだ出てないよねー」
亜子姉さんが左右一対の漏斗を搾乳に使うと勘違いしていたことがわかり、
「ちょっと、何想像してるんですかー!」
恥ずかしさとおかしさが押し寄せ、直美はお腹が痛くなるほど笑い、「やめてー。生まれるー」と悲鳴を上げた。
イザオが会社に出かけて一人になり、直美はもしもしギアを手に取った。
「おーい。そろそろ出ておいで」
返事はない。体が大きくなって子宮が手狭になっているのか、赤ちゃんの動きを感じない。
「大丈夫? いるよね?」
心配になり、亜子姉さんに電話をかけると、
「出て来ちゃったら、中には戻せないからね。今のうちに、やりたいこと、やっちゃって! 自分の体を自分のためだけに使えるの、今だけだから! 今、今、今!」
電話の後ろで泣く0歳の姪っ子の声に半分かき消されながら、「今」を連呼された。
子どもが生まれる前に行っておきたいお店はあらかた行ってしまい、食べておきたいものも食べてしまった。
他にやってないことと言えば……。
コミュニケーション。
母親学級でもマタニティビクスでも「妊娠中も遠慮なくどうぞ!」と力強く勧められたが、一度もそうはならなかった。妊婦の体をいたわって遠慮したわけではなく、そういう気分にならなかった。
直美ではなく、イザオが。
この子がお腹に入った日が最後だ。もしもしギアを手に「パパですよー」「ママですよー」なんてやっていたら、ますます男と女から遠ざかってしまった。
キスもご無沙汰だ。
いや、一度だけあった。
マタニティフォトを撮ってもらったときのことだ。マタニティビクス仲間が見せてくれた写真がとても良くて、この人に撮って欲しいと思い、すぐに予約を入れた。
機材を詰め込んだスーツケースを転がして、フォトグラファーさんが直美たちの自宅まで撮りに来てくれた。同年代の女性で、初対面なのに初めて会った気がしなかった。
キッチン。リビングのソファ。レンタルのベビーベッドの前。家のあちこちで撮ってもらった。
イザオが直美の後ろに立ち、お腹に手を回す。バックハグなんて、いつぶりだろう。カメラの前だと、普段しないポーズを決められる。もしもしギアを使うときと同じように、スイッチが入るのだろう。
「キスしてみます?」とフォトグラファーさんが言った。
「こんなポーズ取ってみます?」のノリだった。直美もイザオもためらわず、すんなり応じた。カメラの前でラブシーンを演じる役者さんたちもこんな感じなのかもしれない。お膳立てされた空気に身を委ねれば良かった。
人前でキスをするのは、結婚パーティのとき以来だった。酔っ払った友人たちの手拍子に乗せられ、余興のようなキスを披露した。あのときは日常にキスがあったけれど、結婚生活のうちに細って枯れていった。
久しぶりのキスは、イザオも直美も唇が乾いていた。「続けて」と言われて、続けた。シャッター音にカウントされるように短いキスを重ねるうちに、唇がなじんでいった。
これが最後のキスになるかもしれない。
わたしたち、もうキスしないかもしれない。
直美はそんなことを考えていたが、イザオの頭には何が浮かんでいたのだろう。
スマホのアラームが鳴り、9時半を知らせる。10時からマタニティビクスのレッスンがある。駅前にあるスタジオまで家から歩いて8分で着くので、30分前にアラームをセットしている。
予定日の前日に行ったレッスンが最後になるはずだったが、今日も行けてしまう。
「産んできます!」と高らかに宣言し、「産んでらっしゃい!」と力強く見送られたので、ちょっと気まずい。
直美が入社した年、会社を辞めると言い、送別会を開いた後で、やっぱり残りますと言った先輩社員がいた。あのときの気まずさに似ている。戻るほうも、迎えるほうも、どんな顔をしていいのか困る。
予定日を過ぎても通っている人は他にもいたし、「また来ちゃいました」でいいかと開き直って現れると、「また来たの?」と言う人はいなかった。「予定日過ぎたんですけど、まだ陣痛来なくて」と言うと、「そうだっけ」という反応をされた。人の予定日なんて、いちいち覚えていない。
合言葉は「産道の1センチはお産の1時間」。ズンズン踊って少しでも産道の距離を稼ぐ。
家に帰り、オレンジを食べようと半分に切ったとき、バン!と破裂するような音がしたかと思うと、大量の水が床に落ちた。包丁を振り下ろすタイミングとバン!が同時だったので、オレンジが破裂したのかと一瞬錯覚した。
生温かい液体が足のまわりに白濁した水たまりを作る。自分の体温で人肌に温められた羊水だ。温泉の足湯のような湯加減。
陣痛の前に破水が来るパターンがあることは聞いていた。追いかけるようにギューッと下腹部を締めつけられる鈍い痛みが来て、すぐ遠のいた。
イザオのスマホに電話をかける。
「もしもし?」
「パパ!」
電話に出たイザオを咄嗟にパパと呼んだ。
「来た?」
「来た!」
次の物語、連載小説『漂うわたし』第58回 伊澤直美(20)「キスしてよ脳内モルヒネ出るから」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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