
第211回 佐藤千佳子(71) みんなのドアが開きますように
寒さは感じるものの、空は晴れ渡り、空気は澄んでいた。行き交う人々の足音も軽やかに聞こえる。
「気持ちのいい元旦だね」と千佳子が言うと、
「元日ね」
隣を歩く文香とその向こうを歩く夫から同時に訂正された。合格祈願を兼ねた初詣へ向かう道。一家で出かけるのは久しぶりだ。
「元旦と元日って違うの?」と聞くと、
「元旦は元日の朝。旦って、地平線から日が昇るとこだから」
「旦」の字を指で空書きしながら文香が言った。
「ふーちゃん、なんでそんなこと知ってるの?」
「私も最近聞いたんだけど。あ、タダト先生だ」
タダト先生とは、パセリ先生のことだ。
文香が中学生のとき、動画配信の英語講師として画面越しに知った武田唯人先生。

後ろに束ねられたウェーブのある長髪がパート先のスーパーマルフルで千佳子が力を入れていたパセリに似ていると思い、「パセリ先生」とあだ名をつけたが、文香は「パセリ」と呼び捨てにしたり、「もずく」と呼んだりしていた。
パートの同僚だった野間さんがアムステルダムで暮らし始め、留守宅に住んでくれる人が必要になったとき、一時帰国した野間さんと新宿三丁目のカフェを訪れた。野間さんに贈られたチューリップバッグの作者、makimakiさんがその店でバイトをしていて、ちょうど引っ越し先を探していた。
さらにご縁があり、makimakiさんの夫がパセリ先生だった。
画面の向こうの人だったパセリ先生が同じ街に引っ越して来て、千佳子のパート先に買い物に来るようになった。
千佳子を飛び越えてパセリ先生と親しくなったのは、野間さんの家に居候したこともある義母の美枝子だった。英語の成績が伸び悩んでいた文香の家庭教師をパセリ先生に頼んだのには驚いた。パセリ先生のことは義母に話してなかったし、配信の先生に対面で教わるという発想は千佳子にはなかった。
ついこの間のことのような気がするが、半年近く前の出来事だ。
焼きいもとアイスを抱き合わせで売るという美枝子の思いつきをアムステルダムの野間さんが後押ししてマルフル本部につなぎ、夏の焼きいもがヒット商品になっていた。
受験生がいる千佳子に遠慮して本読み隊の連絡も千佳子を通り越し、夏の読み聞かせ会が開かれることをポスターで知らされた。自分の知らないところでいろんなことが進み、うまく運んでいた。
悶々として見つめる焼きいもの上でアイスが溶けていくさまが、取り残されて漂う自分の姿に重なった。

あの頃が去年一年の底だったのかもしれない。
5か月ぶりに参加した12月の本読み隊、サツキさんに「行きます」とメッセージすると、「助かる! 2年2組をお願いします!」とお礼と読み聞かせを担当するクラスが短い返信で伝えられた。当日、読み聞かせを終えて図書室に顔を出すと、すでに作業を始めていたサツキさんに「これお願い!」と12月の壁飾りを手渡された。
間が空いたことに気後れしていたのは千佳子だけだった。再スタートしたときはサツキさんとふたりだった本読み隊は、ふた桁にふえていた。入ったり出たり、顔ぶれは毎月変わる。今月は誰が来ていて誰が休んでいるかなんて、誰も気にしていない。今日集まった人で、できることをやるのみ。千佳子が半ば強引に誘ったmakimakiさんも前からメンバーだったかのように馴染んでいた。
思い切って開けたドアの向こうは、拍子抜けするほどひらけていた。
「ほんと、何もわかってないよね」
心の中でつぶやいたつもりが苦笑とともに口からこぼれた。
「元旦と元日の違いなんて、知らなくてもヘーキだよ」
千佳子の心が図書室に飛んでいたことを知らない文香が明るく慰める。
「旦なんて、あんまり使わないし。一旦落ち着け、くらい?」
「文旦の旦だって、あるでしょ」
「ブンタンのタンは単語の単じゃないの?」
文香が思い浮かべたのは『文で覚える英単語』の「文単」らしい。
「そっちじゃなくて、食べる文旦」
「それかー。結構あちこち顔出してるね、元旦の旦」
母娘で盛り上がっていると、黙って聞いていた夫がぼそっと何か言った。
「ダンナのダン」と聞こえた。
「旦那の旦!」
音に字が追いつき、千佳子と文香の声が重なった。「ダンナのダン」って語呂がいいなと千佳子は思い、もう一度口の中で繰り返す。
「もしかして、旦那の旦って?」
文香が夫の頭頂部に視線を注いだ。結婚当初から薄かったが、さらに毛髪の存在感がなくなり、日の出感が増している。
「太陽に毛は生えてません」
真面目な顔して夫が言うと、文香が思わず手を叩いて笑った。
「パパ、面白すぎ」
笑っていいのかなと思いつつ、千佳子も吹き出してしまう。口数は少ないし、声は小さいが、この人は面白いことを言いそうにない顔をして面白いことを言う。それを引き出すのは文香で、文香といるときの夫は、千佳子とふたりでいるときより面白い。

「懐かしいな。太陽と月。ふーちゃん、描いてくれたよね」
「あったねー。中3の冬」
「もう3年経ってるの? ひえーっ」
一週間は月曜日から始まるか日曜日から始まるかというささいなことで義父母がケンカし、収まりがつかなくなったとき、千佳子は月曜日と日曜日を月と太陽に見立てた物語を思いついたのだが、続きが思い浮かばなかった。
「そんなにもめるなら、紙曜日を作ってやる」
自分の上でケンカをされて困ったカレンダーが「紙曜日」を作ると言いだすという夫のアイデアで、ケンカと物語を締めくくることになった。
赤と白の貝殻が合わさった貝を太陽と月に見立てた「月日貝」という名の貝があることを教えてくれたのも夫だ。大学で植物の研究をしていて、生物や生命のことになると、少し口数がふえる。
「ダーナっていうサンスクリット語から来てるらしいよ。旦那は当て字かも」
文香は会話に加わりつつスマホで旦那の意味を調べている。
「ダーナは施す人って意味だって。お小遣いをくれる人ってことだね。旦那さま、お年玉いただきます」
イタズラっぽい目で父親を見た。
「じゃあママも旦那じゃない?」と千佳子が言うと、
「みんな旦那でいいよ。みんな日が昇ってるってことで、おめでたーい」
調子いいんだからと千佳子は苦笑する。
冬休み前に出た模試の結果が思いのほか良く、文香は機嫌がいい。特に足を引っ張っていた英語が伸びた。それまでの模試と同じくらいの得点だったが、平均点が低かったので偏差値が跳ね上がったらしい。パセリ先生の指導とその後の復習につき合ってくれたmakimakiさんのおかげだ。

神社の境内に入ると、たくさんの絵馬が目に入った。
まだ一度も雨に打たれていない真新しい色の絵馬が重なり合って吊り下げられている。太いペンで願いごとが書き込まれているので、つい読んでしまう。
「いつも思うけど、悪いことを書いてる絵馬って、ないよね」
「悪いことって?」
「ライバルが失敗しますようにとか」
「ママ、それ呪いだよ。絵馬ってそういうものじゃないから」
学業にご利益があるという評判で、合格祈願に訪れる人が多いらしい。知っている大学や高校の名前が見え隠れしている。
文香も絵馬に志望校を書くだろうか。文香の志望校をまだちゃんと聞いていない。家から通える国公立を考えているらしく、いくつかの名前を挙げていたが、どれが本命なのかわからない。
「みんな、ドアが開くといいね」
文香が言った。独り言のような小さな声で。
ドアか、と千佳子は思い、あらためて絵馬に目をやる。
絵馬の一つ一つがドアに見えた。願いの数だけ、開けたいドアがある。

「どのドアを開けたいかわかってるって、強いね」
そう言って文香を見ると、文香はたくさんの絵馬を見つめたまま、「そうだね」と言った。その目に開けたいドアは見えているのだろうと千佳子は思う。

次回1月17日に佐藤千佳子(72)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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