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連載小説『漂うわたし』 第198回 多賀麻希(66)「あのときの子を産んでいたら」

カルチャー

2025.08.16

【前回までのあらすじ】「俺は遺伝子を残せないから」と夫モリゾウが言ったことが引っかかっている多賀麻希。家主・野間さんの友人、美枝子さんが置いていったひまわりの種を「今から蒔いても遅いかな」とモリゾウが言うのも自分たちのことを指しているように聞こえて落ち着かない。ドアを開けた隣の部屋から明るい女の子の声がする。美枝子さんの孫、17歳。あのときの子を産んでいたら、あれくらいになっているのか。

連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

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漂うわたし

第198回 多賀麻希(66) あのときの子を産んでいたら

あのときの子を産んでいたら。

ダイニングテーブルに肘をついた両手を真ん中で重ねて顎を支え、麻希はぼんやりと考える。

モリゾウと出会う前の最後の恋人だったツカサ君とつき合いだした頃。できちゃったと自覚した途端、口にするものの味が変わった。においにも敏感になった。体の奥で細胞分裂を繰り返している存在を感じた。

気のせいではないことを、妊娠検査薬の窓に現れた線が証明した。

原因を作ったのはツカサ君だと言い切れなかった。もう一人、麻希の中に原因を置いていった可能性のある人物がいた。その人が麻希の部屋に来なくなってからツカサ君が来るようになったので、時期は重なってはいないが、間はあまり空いていない。その人には家庭があった。

ツカサ君と家庭を持つことも考えられなかった。彼自身が子どもみたいな人だった。頑張ってるねとお母さんに頭をなでられるのを待っている小学生の男の子がそのまま大きくなって、脚本を書いて、コンクールでほめられるのを待っていた。

父親はあてにできなかった。母親になる準備もできてなかった。25歳で貯金もない。産むとしたら、熊本に帰って、両親に頼るしかなかった。

冗談じゃない。せっかく東京に出てきたのに。

反射的にそう思った。すぐさま産婦人科に予約を入れた。だが、手術の当日、あらためて検査をすると、取り除かれる予定の対象はいなくなっていた。よくあることなのか、先生は驚かなかった。

出て行ったんだ。わたしに愛想を尽かして。

ほっとしたのに、悲しかった。豆粒みたいな小さな存在に見限られてしまった。

カズサさんに託された子ども服

「あのとき」は、一度ではなかった。

産んでいたら36歳のときの子だった。父親をあてにできないのは25歳のときと変わらなかったが、25歳のときにはなかった貯金と覚悟があった。遅れに遅れた生理が来て、独り相撲のような妊娠は終わった。

その過去にかぶせていたフタが外されたのは、去年の秋のことだった。

スーパーマルフルのパートの佐藤さんに紹介されたカズサさんという女性に「子ども服をリメイクしてエコバッグを作って欲しい」とオーダーされ、彼女の娘が着ていた子ども服を託された。

作業台に子ども服を広げると、あのときの子を産んでいたら、この服はリメイクの材料ではなく、お下がりで着せられたかもしれないと空想した。これまでに着せていたかもしれないシャツやスカートのことを想った。

ハサミを入れようとして、ためらった。子ども服を裁つことで、母親になる未来を断ち切ってしまう気がした。

結局、名残を惜しんだカズサさんから子ども服を引き上げたいという要望があり、預かったときの状態のまま返したのだが、麻希には動揺が残された。自分がまだ「母親になる可能性」を手放していないことを突きつけられた出来事だった。

子どもを産まない代わりに手に入れたものって、何だったのだろう。

麻希がいても、いなくても、東京は何も変わらなかった。けれど、あのときの子を産んでいたら、麻希の人生は確実に変わっていた。モリゾウと出会うこともなかったし、今、この部屋で頬杖をついて物思いに耽ったりもしていない。庭つきの一軒家。バイト先だった新宿三丁目のカフェを訪ねてきた家主の留守宅。ここは東京ではなく横浜だった。

麻希とモリゾウが暮らす野間さんの留守宅の庭。麻希の娘と亜子の娘がクローバーを探している。

麻希は庭に目をやる。そこに幼い女の子の明るい声が弾けた日を想う。

今年の5月。ひまわりバッグの購入者の伊澤直美が、彼女に代理での購入を頼んだ義姉の伊澤亜子とそれぞれの娘を伴ってやって来た。半年違いで生まれたふたりの女の子は3歳9か月と3歳3か月で、名前は「ゆい」と「ゆあ」といった。

「いくつですか?」と歳を聞いたときの自分の声は自然だったし、ゆいとゆあが聞いたことのない歌を歌いながら四つ葉のクローバーを探す姿を微笑ましく眺められた。子ども服を前にしたときの胸のざわめきはなかった。

何が違ったのだろう。そのときの気分だろうか。心のゆとりとか。あったかもしれない過去やあるかもしれない未来を想像することは、目の前の現在に不満を抱いているということだろうか。

視線を感じて振り返ると、ウェディングドレスを着せられたトルソーが庭を向いて立っている。

トルソーに着せたウェディングドレス。裾にクローバーの刺繍が入っている。

麻希が裾一面にクローバーの刺繍を施したそのドレスを花嫁の田沼深雪がまとったのは、2年前の6月だった。モリゾウと遠目に見届けた。その帰りにプロポーズされ、その年の11月に入籍した。 

田沼深雪との縁は、ドレスが始まりではなかった。麻希が作ったひまわりバッグの購入者、伊澤直美が彼女の会社の同期だった。バッグの写真を見せられた彼女は、高校生の頃に見た映画『幸せのしっぽ』を思い出した。クレジットはケイティになっているが、ヒロインの衣装に採用されたのは、麻希のデザインだった。かつて母親が着たドレスを押しつけられた彼女は、好きにしてと託す相手に麻希を選んだ。

田沼深雪との縁は、ドレスで終わらなかった。伊澤直美に借りたひまわりバッグを持って友人の結婚披露宴に出席した彼女の姿が、インフルエンサーである新婦によって拡散され、ひまわりバッグも注目を集めた。ケイティがデザインを盗んで量産した模倣品の存在が掘り返され、真贋論争が数年ぶりに再燃した。

今年4月、田沼深雪から連絡があり、会いに来た。そのとき、このテーブルで交わした会話が蘇る。

「お子さんは?」

麻希が田沼深雪に聞いたのは、話題が途切れたからだった。沈黙を埋めるために何か言おうと思っただけで、深い意味はなかった。空白が淋しいから彩りのパセリを置くようなものだ。

「お子さんは?」

田沼深雪は同じ言葉を返した。彼女も同じことを何人にも聞かれている。ふたりして苦笑し、やれやれとため息をついた。

結婚している夫婦に子どもがいるかどうかを聞く。いるのが当たり前だと押しつけているわけでも、まだいないのかと急かしているわけでもない。けれど、そのように受け止めてしまうのは、こちらの心の持ちようだ。敏感肌みたいに、ちょっとした刺激でかぶれやすくなっている。聞くほうに深い意味はないのに、意味をつけてしまう。

ウェディングドレスの裾に施したクローバーの刺繍から伸びた緑色の糸で描いた母と幼な子。覗き窓から覗いたように、丸く切り取られている。

「うちはダメなので」と田沼深雪は言った。 
「ダメって?」と麻希が聞き返すと、
「子ども」とつけ足した。

それが「お子さんは?」の答えらしかった。

「子どもダメ」とはどういう意味だろうか。子どもを持たないという意思なのか、子どもを持てないという諦めなのか、子どもを持つなと言われているのか、子どもが苦手なのか。「うちは」ということは、夫婦で話し合って、合意に至ったということだろうか。

麻希とモリゾウは話せていない。「子どもどうする?」と聞いた途端、体の交わりの意味が変わってしまう。愛情を確かめ合うためではなく遺伝子を合体させるための営みになってしまう。そうなったら男と女ではいられなくなる気がする。

ドアを開け放った隣の部屋に目をやる。17歳の女の子の隣にモリゾウいる。孫に英語を教えてやって欲しいと美枝子さんに頼まれ、今日が一回目だ。壁につけたデスクに横並びで向かっていて、リビングの麻希からは並んだふたりの背中が見える。顔が近い。さっきより近づいているような気がする。熱が入って、前のめりになっているだけかもしれないのに、そこに意味をつけてしまう。

不満なのか。不安なのか。それとも不穏なのか。

美枝子さんの孫は、スーパーマルフルの佐藤さんの娘だ。子ども服のカズサさんを麻希に紹介したのも佐藤さんだった。気のせいかもしれないけれど、佐藤さんと会うとき、彼女は麻希を見ない。モリゾウを見ている。娘がここに来ていることを佐藤さんは知っているのだろうか。佐藤さんが美枝子さんに頼んだのだろうか。
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次回8月30日に佐藤千佳子(67)を公開予定です。

編集部note:https://note.com/saita_media
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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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