第154回 伊澤直美(52)配慮ってどうするんだっけ
試食イベント当日、直美は受付を買って出た。4階の大会議室前に出した長机でタヌキと共に参加者を待ち受ける。
参加者名簿にある佐藤千佳子さんが、あの佐藤千佳子さんだとしたら。
電車で偶然向かいの席になったときは再会に気づかず、初対面のようなやりとりになった。無理もない。数年前にパソコンのモニター越しに数時間話したことがあるだけなのだ。でも、後から記憶が蘇り、会うべき人にはまた会えるのだと思った。
同じことが佐藤千佳子さんにも起こっているとしたら、電車で遭遇したときに持っていたチューリップのバッグを持ってくるに違いない。
予想は的中した。
受付の斜め前方にあるエレベーターのドアが開き、チューリップの赤が目に飛び込んだ瞬間、やっぱりとなった。バッグの持ち主の顔を見て答え合わせをする。合っていた。隣でタヌキも小さく反応する。パソコンモニター越しに会ったことのある佐藤さんの顔を思い出したのだろう。
エレベーターには4人が乗っていた。ドア近くに乗っていた佐藤さんと隣の女性が最初に降りる。日曜日の開催にしたので、もしかしたら電車で遭遇したとき一緒にいた娘さんと参加されるかもと期待していたが、違った。
受付に向かってふたりが歩いてきて、あれっとなった。隣の女性は左手を佐藤さんの右腕に添え、右手に白杖を持っている。隣のタヌキに目をやると、タヌキも直美を見ていた。申し込みフォームの備考欄には何も記されていなかったよね?と視線を交わす。
何か配慮が必要なのではないだろうか。配布資料の音声版は用意していない。今からでは間に合わない。事前に知らせてもらっていれば。
佐藤千佳子さんと白杖の女性が直美の前に来た。後からエレベーターを降りたもう1組はタヌキの前に進んだ。
「佐藤千佳子さん、ですよね?」
名乗られる前に直美から名前を告げた。
「覚えていてくださってました?」
「はい。電車で会った後に思い出して」
「私もです。あ、これ、makimakimorizoです」
電車を降りる佐藤さんに直美が投げかけた「makimakimorizoですか?」の答えを告げ、チューリップのバッグを持ち上げる。バッグに負けないくらい鮮やかな赤に彩られた唇の両端も持ち上がる。オンラインでインタビューしたとき、アイメイクはしているように見えないのに唇が主張していて、ちぐはぐな印象を受けたのだが、佐藤さんにとって赤という色には特別な意味があるのかもしれない。
「噂の月刊ウーマンの人ですね?」
開いたページに栞をすっと差し挟むような自然さで、白杖の女性が会話に加わった。
「佐藤さんに記事を読み上げてもらいました。パセリの花束の話、良かったです」
朗らかで伸びやかな声だ。
そうか。あの記事を読んでくれていたのか。
佐藤さんのことを話したのに、報告しそびれていた。でも、ちゃんと見つけて読んでくれていたのだ。
「マルフルによくいらっしゃるお客様のカズサさんです」と佐藤さんが紹介する。
アイタス食品の取引先であるスーパーマルフルでパートをしているとインタビューのときに佐藤さんは話していた。今もパートを続けているらしい。そういえばあのとき、インタビューに応じてくれる人をマルフル担当の営業に探してもらったのだった。佐藤さんは今日のイベントのこともマルフルで知ったのかもしれない。
「私たち、真昼の逢い引きの仲なんです」とカズサさんがいたずらっぽく言い、
「お肉のほうです」と佐藤さんが補足する。
肉の合い挽きも男女の逢い引きもアイビキというベタなネタで笑い合う仲なのだろうか。スーパーの店員とお客さんというより、つき合いの長い同級生のような雰囲気だ。
カズサさんの唇も鮮やかな赤だ。佐藤さんと同じ口紅だろうか。マルフルで売っているのだろうか。それとも外の店に一緒に買いに行くのだろうか。そもそも今日のイベントに参加するのはマルフルの業務とは関係ないはずだ。
1階に降りて次の参加者を運んできたエレベーターのドアが開いた。直美は慌てて配布資料の山から2部取り、カズサさんにも手渡していいものかと迷い、「印刷のものしかご用意がなくて……」と告げる。
「いいですよ、スマホで読みます」
カズサさんがそう言い、「受け取っときますね」と佐藤さんが2人分の資料を受け取った。
そっか。スマホで読めるのか。
佐藤さんとカズサさんが大会議室に入り、直美は次の参加者の受け付けを続けながら考える。
料理もスマホで読めるだろうか。
直美は自分のスマホに保存した写真をキーワード検索することがある。いつ行ったか思い出せない店の写真を探すときは、「パンケーキ」などと写真に写ってそうなアイテムで検索する。人物を登録すると、その人物の写真を拾い出してくれる。「優亜」の写真を生まれた日から今日まで並べて見せてくれる。
スマホはフムスを認識できるだろうか。
試食メニューはパック豆シリーズを使ったスープと煮込みと炊き込みご飯とフムス。8名ずつのテーブルで取り分けてもらい、試食の後に感想や意見を交換する流れになっている。
参加者は募集よりやや多い24組48名に落ち着いた。全員が着席したのが、開始5分前。時間に余裕を持って集まる。今日のお客さんは、いいお客さんだ。目の不自由なカズサさんを温かく迎え入れてくれるだろう。
特別なことはしてくれなくていい。「目の不自由な人がいるのに、点字の資料を用意していないのか」などと正義を振りかざされると、かえって面倒だ。当事者よりも声の大きな人が、当事者を差し置いて、当事者を萎縮させてしまう。優亜がお腹の中にいたときから良かれ教の人たちに幾度となく振り回されてきた。
「そのまま食べられるパック豆シリーズのひよこ豆を使ったフムスは3つの味をご用意しました。カレー、アボカド、ビーツです。大根、人参、きゅうり、赤と黄色のパプリカの野菜スティックにつけてお召し上がりください」
試食メニューを丁寧に説明することにしたのはカズサさんへの配慮だったが、参加者全員に向けての言葉になるよう心がけた。自分だけに気を遣わせていると思わせてはいけないと気を遣う。
試食タイムが始まると、食欲で膨らんだ48人分の熱気が一斉に動いた。食品開発部の社員が各テーブルに一人ずつつく。直美は佐藤さんとカズサさんのテーブルについた。お手伝いできることがあればすぐ動けるようカズサさんに目を配るが、佐藤さんを邪魔しないよう気も配る。
「フムスから行っていいですか?」とカズサさんが威勢よく言い、「行きましょう」と佐藤さんが応じ、「取りましょうか?」と聞いた。
「お願いします! にんにくとオリーブオイルの誘惑。我慢の限界でした!」
カズサさんは、においでフムスを見ていた。
「フムスは火を使わなくても作れるので、ぜひ作ってください」と直美が言うと、
「火を使った料理も作りますよ」とカズサさんが言った。「普通にガスで料理してます」
言われて初めて、失礼なことを言ってしまったと気づいた。目の不自由な人は火を使って料理をしないという思い込みがあった。
「料理の動画をご自身のYouTubeチャンネルで配信してるんですよ」と佐藤さんが言う。
「YouTubeやってらっしゃるんですか?」と直美はさらに驚き、同じテーブルの参加者たちも身を乗り出す。
「まだチャンネル登録者数は少ないんですけど。やっと4000人を達成したとこです」
「4000!」とテーブルがどよめく。直美も驚く。一昨年立ち上げたアイタス食品の公式チャンネルの登録者数はまだ2000人にも届いていない。
「一番バズったのは、100万再生超えてるんですよ」
佐藤さんが言い、「100万!」とテーブル一同がのけぞった。試食そっちのけでカズサさんに注目が集まる。
「今日のことも配信するんですか?」
「私たちYouTubeデビューしちゃう?」
「アイタス食品さんからギャラもらわないと!」
笑い声が弾け、他のテーブルがこちらを見る。
参加者に目の不自由な人がいるとは予想していなかった。その人がYouTuberだとはもっと予想していなかった。
佐藤千佳子さんは、再会以上の驚きを連れてきた。
次回5月11日に多賀麻希(51)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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