第20回 佐藤千佳子(8) 真昼の逢い引き
「佐藤さん、レジ替わるから、あちらのお客様のご案内お願いできる?」
先輩パートの野間さんに声をかけられ、千佳子が目をやると、ガラス張りの自動ドア越しに白い杖をついた女性が近づいて来るのが見えた。
「いつも野間さんが担当されている方ですよね?」
「誰でも対応できるようにしといたほうがいいかなって」
野間さんが専属のようになっていたが、売り場の誰よりも目配りがきくから、真っ先に気づいて駆けつけていたのだろう。
「こんにちは。ご一緒しましょうか」
「いつもと違う方ですね」
白杖の女性は、ひと言聞いただけで声の主が野間さんではないとわかった。
「佐藤と申します」
「佐藤さん、よろしくお願いします。カズサです」
上の名前だろうか。下の名前だろうか。
「腕、つかませてもらっていいですか。カゴも持ってもらえると、助かります」
カズサさんは朗らかな声で続けた。
お手伝いを申し出ると、遠慮されたり萎縮されたりすることもあるが、カズサさんの反応はとても自然だった。差し出したハンカチに、すっと手を伸ばして受け取るように。
千佳子はワインのテイスティングを思い出す。レストランでボトルのワインを注文すると、栓を開けたワインをグラスにひと口注がれる。味を見て、気のきいたことを言おうとするのだが、「おいしいです」と月並みな感想しか思いつかず、しどろもどろになってしまう。
あるとき、テイスティングは味の感想を求めるものではなく、ワインに問題がないかどうかを調べるためのものだと知って、顔から火を噴きそうになった。
カズサさんのこなれた動きは、千佳子のぎこちないワインテイスティングとは逆だった。ためらいがなく、スムーズで品があった。
「買われるものは決まっていますか」
「はい。チラシを見て、目をつけてきました」
カズサさんはまったく目が見えていない様子なのだが、「チラシを見て」「目をつけて」と言った。
「チラシって、ポスティングのチラシですか?」
「ウェブチラシです。読み上げソフトに読んでもらっています」
「そんなことができるんですね」
「できるんです。買いたいもの、こちらにまとめてあります」
カズサさんはスマホを取り出すと、買い物リストのメモ画面を開いた。
「しらすツインパック、モッツァレラチーズ、バナナ。目玉商品を選んでいただき、ありがとうございます」
「お買い得商品ばかり狙ってすみません」
「いえいえ。お買い物上手でいらっしゃいますね」
「佐藤さんは、ほめ上手ですね」
カズサさんがリラックスしているので、千佳子も肩の力が抜ける。店員とお客さんというより友人の買い物につき合っているみたいだ。
買い物リストを確認しながら商品を並べているところまで誘導する。数や重さにばらつきがあるものはラベルを読み上げ、伝える。
「スマホをかざしたら文字を読み上げてくれるアプリもあるんですけど、売り場でそれやると、盗撮みたいになっちゃうので」
メガネ型になったものもあるのだが、今はまだ何十万もするので、手が届く値段になるのを待っているらしい。
野菜コーナーを進んで行くと、
「ハーブですね」
千佳子の目がとらえるより早く、カズサさんが香りに気づいた。
「最近わたしが気に入っている商品があるんですけど、おすすめしていいですか」
「ぜひお願いします」
「食べられる生ハーブブーケと言いまして、カップに水挿しのハーブが入っていて、料理に使う分だけちぎって、観葉植物、としても楽しめるんです」
「観葉植物」と言ってから一瞬言葉を飲み込み、不自然な間が空いてしまった。中途半端な気遣いはかえって失礼ではないだろうかと千佳子が気をもんでいると、
「いいですね。食べられる観葉植物」
カズサさんは朗らかに言った。
そう言えば、カズサさんは香りでハーブを見つけた。指で葉っぱを触れば、形や大きさを見ることもできる。目が不自由な人は「見えない」のではなく、「視覚を使って見ることができない」だけなのだと千佳子は気づく。
「値引きシールがついたものもありますが」
「そちらも見ていいですか」
カズサさんは香りを見比べて、値引きシールがついてないほうを選んだ。
「スライスハム、スライスチーズ、冷凍の枝豆……」
買い物リストの続きを読み上げていくと、突然「逢い引き」が現れた。
逢い引き?
見てはいけないものを見てしまったかと千佳子は焦り、「人妻だって恋をする」と野間さんに言われた言葉を思い出す。
「合い挽き」の誤変換だと気づくまでに数秒かかった。
「もしかして打ち間違えてます?」
察しがいいカズサさんは、千佳子の短い沈黙の理由を予想した。
「実は合い挽きが……」
「わ、あっちのアイビキになってました?」
「そうなんです」
「同音異義語、よく間違えるんですよ」
「音声で入力されているんですか?」
「ボイスオーバーと言って、キーボードの文字を読み上げてくれる機能を使ってます。誤字のチェックもできるんですけど、急いでるときは打ちっ放しで」
「わたしもよくやります」
目が見えていても変換ミスはあるし、見逃したまま送信してしまうこともある。でも、千佳子なら一目で見分けがつく同音異義語をカズサさんが確かめるには、何倍も時間がかかるのだろう。
「スーパーで逢い引きって、なまめかしいですね」
カズサさんがいたずらっぽく言う。そこに触れていいんだと千佳子はホッとして、つけ足した。
「肉がつくと余計に生々しいですよね」
カズサさんが笑うと、カズサにつかまれた腕に振動が伝わった。つられて千佳子もふふふと笑う。
「佐藤さんて、声いいですね。ずっと聴いていたいくらい」
不意に声をほめられた。
「ほんとですか。そんなこと言われたの、初めてです」
「私は、声からその人の顔を見るわけですけど」
「はい」
「佐藤さんは、第一印象から、とてもきれいな人です」
また「きれい」と言われた。野間さんに「きれいになった」と言われて、いい気になり、夫に「きれいだね」と言われたかと思ったら桜のことで肩透かしを食らったが、カズサさんの「きれいな人」は千佳子のことだった。3回言われたうちの2回。きれい的中確率が上がった。
カズサさんを自動ドアの外まで見送り、レジに戻った後は、お客さんの声や足音やビニール袋のこすれる音に耳が敏感になった。帰宅してからも、それが続いた。夕食の準備をしながら聴くのが習慣になった娘の学習動画も「耳で講義を見る」のだと意識が変わった。
まだ聴いたことのない教科を聴いてみようと思い、英語を選んだ。はじめましてと名乗る講師の声に、胸がざわついた。
きっと、いつもより声に注目していたせい。
きっと、カズサさんのメモに「逢い引き」なんて書いてあったせい。
きっと、野間さんに言われた「人妻だって恋をする」の余韻のせい。
出会ってしまった。ずっと聴いていたい声に。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第21回 伊澤直美(7)「先延ばしの呪いを解く方法」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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