第174回 多賀麻希(57)子ども服を着せたかもしれない過去
子ども服を着せたかもしれない過去はあった。
ツカサ君に去られた後、恋とも呼べないような、すり減るばかりの逢瀬を重ねていた頃。
生理が遅れた。元々遅れがちではあったけれど、ひと月遅れて、子どもができたのだと覚悟した。
育てよう。
そう思った途端、人生の眺めが変わった。すれ違う妊婦が仲間に思えた。ベビーカーを押す母親に未来の自分を見た。
子どもを産んだら一人ではなくなる。
この子と生きていくのだとまだ膨らんでいないお腹に手を当て、その温かみを感じた。この子にどんな服を着せてあげよう。どんな景色を見せてあげよう。
生理が来るまでの間に見た、短い夢だった。
一人で育てようと思ったのは、映画製作プロダクションで同僚だった事務の美優ちゃんの影響があったと思う。シングルになった美優ちゃんから届いた年賀状。七五三の着物姿の女の子と写っている笑顔は幸せそうで、「母娘仲良くやっています」と書き添えた文字は力強かった。
プロダクションにいた頃から「事務のかわいいほうの子」と呼ばれていた美優ちゃんは、麻希の手に入らないものを次々と手に入れた。自分から手を伸ばすわけでもないのに、向こうから寄ってくる。映画のエキストラの現場で麻希が着られるかもと期待したウェディングドレスを着たのも、美優ちゃんだった。
子どもを産めば、せめて美優ちゃんに追いつけると思った。
もし妊娠していたら、出産するときには36歳になっていた。6年前。あのときの子が生まれていたら今、小学1年生だろうか。女の子だったら、カズサさんから預かった子ども服をリメイクの素材にするのではなく「うちの子に着せたい」と言ったかもしれない。
でも、母親になっていたら、新宿三丁目のカフェでバイトすることもなかったし、客として訪れた野間さんの留守宅に住むことも、一緒に店に来たマルフルの佐藤さんからカズサさんを紹介されることもなかった。モリゾウにも出会わず、布雑貨作家を名乗ることもなく、ひまわりバッグも生まれていない。
今つながっている人たちの大半は麻希の人生に登場していないことになるし、今日という日は別な1日になっていただろう。
いくつもの偶然が重なって、子どものいない自分の前に子ども服が広げられている。着なくなった子ども服からエコバッグを作ってほしいというオーダーに応えようとしている。素材を活かそうとすると、小さく折り畳むのは難しい。エコバッグではなく存在感のあるバッグにしてはとデザインを考えてみる。それなりに面白いものはできそうなのだが、早く形にしたいという衝動が湧いてこない。
引き受けるべきではなかったのだろうか。
モリゾウが家にいなくて良かったと思った。子ども服を前に悶々とする姿を見られたくない。
このところモリゾウは家を空けることが多い。昔の知り合いに仕事を頼まれたらしく、今日も打ち合わせに出かけている。オンライン配信の英語講師の仕事は一段落し、翻訳の仕事も減っていて、ほぼ無職の状態が続いている。収入につながるものはなんでもありがたい。
家賃がかからないとはいえ、アパートから一軒家に引っ越し、エアコンの台数が増え、光熱費は倍近くに跳ね上がった。野間さんがいつアムステルダムから帰国して、この家を明け渡してほしいと言われるかもわからない。そのときに備えておかなくてはならないのだが、貯金を切り崩しているのが現状だ。年齢だけでなく、経済的にも子どもを持つ余裕はない。
視線を感じた気がして子ども服から顔を上げると、目の前にトルソーがあった。
モリゾウが拾ってきたときのことを思い出す。
当時、ウェディングドレスと向き合っていた。モリゾウとまだ結婚はしていなかったし、その話をすることもなかった。「わたしたちどうするの?」の問いをモリゾウにぶつけることで、自分に跳ね返ってくるのが怖かった。
いつかは夏休みが終わって学校が始まるように、いつかはケジメをつける必要がある。結婚するのか、関係を解消するのか。あと10歳若かったら、お互い30代だったら、答えを迫られただろう。だけど、40代なら急がなくていい。世間から見れば、余裕で中年だ。今さらわざわざ式を挙げたり籍を入れたりしなくてもいい。だったら、このまま遅れてきた青春時代みたいな同棲生活を気が済むまで続ければいいのかもしれない。
その先に何があるのか。意味を考えても答えは出ない。だから、問いから逃げていたのだが、預かったドレスにひと針ひと針刺繍糸を通すうちに、ふたをしていた気持ちに穴が開いた。
今さらウェディングドレス。
今でもウェディングドレス。
モリゾウと結婚する未来を思い描けない以上、花嫁としてドレスを着ることはないのだろうという諦めと未練。
鏡の前でウェディングドレスを体に当てたところにモリゾウが帰宅し、鏡の中に現れた。「違うの」と言い繕うとする前に、モリゾウが小脇に抱えていたトルソーが目に入った。おかげで余計な言い訳を口にせずに済んだ。
トルソーにウェディングドレスを着せた。
好きにしてくれていいと言ってドレスを託した依頼人は、麻希がドレスを切り刻んでまったく別なものに作り替えても怒らなかっただろう。驚きもしなかっただろう。そうなってもいい、それくらいやってもらっていい、と会ったことのないひまわりバッグの作者に答えを求めたのだ。
依頼人の母親が着ていたドレスを刺繍のクローバーで覆い尽くしたのは、過去は変えられなくても上書きはできるという麻希なりの依頼人への返事だった。ハサミは入れなかったが、刺繍糸の終わりを玉結びで留め、ハサミで切った。小気味良い音と共に、糸でつながっていたドレスと自分が切り離された。
そのドレスを花嫁がまとった姿をモリゾウと遠くから見届けた。パーティーに呼ばれなかったのか、花嫁の母親が隣にいた。「雑草」に覆われたドレスを嘆き、刺繍した本人であるとは知らず、目が合った麻希にドレスの感想を尋ねた。
「今日は、一番着たいドレスを着る日だと思います」と麻希が答えると、「遠くで見ると、悪くないかもね。ドレスも、娘も」と花嫁の母は言い、立ち去った。娘の元へ向かったのかどうかは見届けなかった。どちらの未来も残しておきたかった。
ドレスを作ろうと思った。ひまわりのバッグをひまわりのドレスで上書きしようと。
そのときモリゾウが言ったのだった。「結婚しよっか」と。
トルソーにドレスを着せたのは、あのウェディングドレスが最初で最後だ。天井の低いアパートから広い家に連れて来られ、所在なさそうにドレスを待っている。
アトリエをどうしようかと話しているとき、「addressの中にdressがある」とモリゾウが言った。決まった場所にアトリエを構えなくてもいい。移動式でもいい。リビングとダイニングと作業場を兼ねたこの部屋をアトリエにしてもいい。
ドレスの外にアドレスがある。
ドレスを着る人がアドレスになる。
アドレスのないドレスを作ってみようとトルソーに誓ったのは、この家に越して来て間もない春のことだ。あれから半年余り経つが、まだ約束を果たせていない。
ふと思った。
トルソーに子ども服を着せてみたらどうだろう。
子ども服でドレスを組み立てるのだ。どこにもない、世界にひとつだけのドレスを咲かせるのだ。レースやリボンをもっとつけて、刺繍やボタンも散りばめて、ここどうなってるのと大人も子どもも知りたくなって触りたくなって誰かに教えたくなるドレスを。エコバッグからますます遠ざかってしまうが、イメージが一気に膨らむ。
頭の中でハサミがためらわず進む。道を切り拓くように力強く。
次回12月7日に佐藤千佳子(59)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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