第30回 多賀麻希(10) 今さら孫の顔が見られるわけでもないし
「誰だ?」と麻希の父はモリゾウの背中に声をかけた。
「誰だ?」とモリゾウも見知らぬ老人に身構えた。
それが、麻希がバイトに出かけて留守の間に鉢合わせた父とモリゾウの初対面だった。
モリゾウは玄関に背を向け、ちゃぶ台に置いたパソコンで映画でも観ていたのだろう。チャイムの音に気づかず、鍵をかけていないドアが開いた音にも気づかず、背後から声をかけられて振り返ったときには、見知らぬ老人が部屋に上がって仁王立ちしていたのだろう。
父は70歳を超えたが、柔道の心得があり、体格はがっしりとしている。床に座ったモリゾウから仰ぎ見ると、威圧感があったに違いない。
一方、父は、髪を縛ったモリゾウの後ろ姿を娘だと勘違いし、声をかけたら、振り向いたのが見知らぬ男で仰天したらしい。最後に熊本に帰ったのは2年前で、父とはそのときに会ったきりだが、後ろ姿とはいえ、いくらなんでも娘と見間違えるには、モリゾウは別人すぎる。
以上は、父の短く不機嫌な報告から麻希が想像した鉢合わせの光景だ。
「主(ぬし)ゃ誰かて言うたら、あっちも誰かて言うけん。主ゃ何者(なにもん)か!」
実際には、父は、それしか言っていない。鉢合わせてから間もないところに麻希が帰宅したらしい。麻希はちゃぶ台に加わり、父の出方を待つ。
「こぎゃんこつ、東京じゃ珍しくなかとやろばってん」
物分かりがいいような口ぶりだが、「東京では珍しくない」というのは、「熊本では珍しい」と皮肉を言いたいのだ。結婚もせず男女が同居を始め、親に報告もないとは信じがたいとなじっている。
「いつから一緒に住んどるとか」
父は麻希ではなく、モリゾウに聞いた。
「2月の終わりです」
モリゾウは短く、事実だけを告げた。もう4か月になるのかと時間の流れの早さに麻希は驚く。
39歳の誕生日に派遣切りを告げられ、再就職活動を始めた。ハローワークの前で怖気づいて引き返し、20代の頃に勤めていた映画製作プロダクションが入っていた新宿三丁目の雑居ビルに向かった。その1階のカフェに立ち寄り、コーヒー1杯で立ち去るのが名残惜しくてビールも飲み、ここでバイトしたいと思わず言ってしまったら採用され、そこに荷物を取りに来たバイトのモリゾウと一緒に店を出た。麻希の家までついて来たモリゾウは、そのまま居着いた。
あの日から4か月。1年の3分の1をモリゾウと同じ部屋で過ごした。色っぽい進展は一度も、一瞬もなかったが、モリゾウと会った日から、モノクロだった日々に色がついている。淡く穏やかで温かな、朝焼けに染まる空のような色。
「勤め先は?」
「勤め人ではありません」
「無職か!」
「定職にはついていません」
「主ゃフリーターか!」
娘の留守中に部屋にいた男を娘と恋仲に違いないと決めつけ、父は職務質問のようにモリゾウの身元を確認する。
「大学は?」
「出ていません」
そうなのかと、モリゾウの答えから麻希は新たな事実を知る。モリゾウは学生の頃から演劇をやっていたと聞いていたが、卒業はしていないらしい。
「蓄えはあるとか?」
「ありません」
父の顔がだんだん険しくなる。モリゾウの学歴も、職業も、貯金がいくらあるかも、麻希には関係ないのに。
「こん人はただの同居人やけん」と口を挟もうとして、麻希は言葉を飲み込む。
ただの同居人?
その前提が崩れ始めていた。モリゾウに嫌われたくないと思い始めた今、モリゾウは麻希の部屋だけではなく心にも住みついている。
「ただの同居人」と言ったところで、父は納得しないだろう。恋愛感情のない男女の同居は、結婚しない男女の同居以上に、父の理解を超えている。東京でも決してよくある話ではないし、麻希の人生でも初めてのことだ。以前の麻希にとっては、部屋に上げることと体を許すことは同義語だった。
「東京に出て何年になるとや?」
ようやく父が麻希に質問を向けた。18の春からだから21年になるのかと麻希が頭の中で計算をしていると、
「熊本より長くなったとか」
父は麻希の答えを待たずに呟いた。昔から父は人の話を聞かない。麻希の話も聞かない。
「主ゃ今後んこつば、考えとるとか!」
父は再びモリゾウに顔を向けた。結婚の意思はあるのか。どうやって生計を立てていくつもりなのか。質問が核心に迫ってくる。
モリゾウが自分の立場をどう思っているのか、麻希のことをどう考えているのか、父の詰問であぶり出されるかもしれない。それを聞いてみたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちがせめぎ合う。もし、「麻希さんとは何でもありません。間借りしているだけです」とモリゾウが言ったら、傷ついてしまいそうだ。
モリゾウは黙っていた。下手なことを言わないほうが賢明だと思っているのだろうか。モリゾウも「ただの同居人」ではなくなっていることを自覚して、揺れているのだろうか。それとも、父の誤解に乗って、麻希の恋人としてふるまっているのだろうか。胆石の診断を受けた診察室で夫を演じてくれたように。モリゾウは役者だから、その場その場で求められた役を演じられるのだ。
「お父さん、今さら結婚という年でもないよね?」
あえて東京のアクセントで告げると、父がモリゾウから麻希に視線を移した。熊本を離れたときは、まだ18だった。その頃から倍以上を生きてきた娘の顔をまじまじと見る。
あと十年早かったら、結婚の意思と生活能力を問いたくなる親の気持ちはわかる。だが、麻希はもう39だ。あと一年で40だ。
「そらそばってんか。まぁ、今さら孫ん顔ば見らるるわけじゃなかし」
父はあっさり納得した。結婚と孫の顔はセットなのか。孫の顔が見られないなら、結婚する意味はないのか。追及が止んだことにはほっとしつつ、なんだかなあという気持ちになる。モリゾウを値踏みする質問は、娘の幸せを願ってのものではなく、孫への期待からだったのか。
孫なら、熊本に残っている妹の奈緒が3人も産んでいる。もう十分ではないか。孫の顔が見たいなんて、今まで一度も言って来なかったのに、今になって、手遅れみたいなこと言わないで欲しい。
期待されるのも、期待されないのも、割り切れない。結婚は孫の顔を見せるためのものじゃないし、わたしは孫製造機じゃない。
「孫の顔見られないって、決まったわけじゃない」
思わず言い返した麻希を、父とモリゾウが驚いて見た。父の決めつけに黙っていられなくなっただけだったが、産むことを考えている口ぶりに聞こえただろう。
もちろん、麻希がこれから産む可能性はゼロではない。挑むチャンスはある。でも、それは、相手があってのことだ。
モリゾウが座っている体の左側が熱くなる。あぶり出されたのは、モリゾウの本音ではなく、麻希の本心だった。
モリゾウはもう、ただの下宿人じゃない。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第31回 佐藤千佳子(11)「わたしが主人公になった日」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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