第55回 佐藤千佳子(19) 母と娘のロウバイの季節
「狼狽の季節よね」
急須から湯呑みにお茶を注ぎ、千佳子に勧めると、夫の母が静かに告げた。
そんな季節があることを千佳子は知らなかったが、「そうですね」と相槌を打ち、見透かされていたのかと狼狽した。
夫の実家に千佳子一人で訪ねている。バス停で4つ離れているだけで、自転車でも10分あれば着く近さだが、普段はあまり行き来はない。仲が悪いのではなく、お互いの生活に踏み込まないようにしている。今日は「お餅がたくさんあるのだけど」と電話をもらったのだが、千佳子一人が呼ばれるのは、珍しいことだった。
2週間前、正月に一家で挨拶したとき、なるべく普段通りに振る舞おうとしたのだが、かえって不自然に映ったのかもしれない。
「暮れから始まってはいたんです」
余計なことは言わないでおこうと結んでいた口が緩んだ。
文香のことだ。きっかけは14歳の誕生日だった。友達を招いてのお誕生会は前の年に卒業していたが、例年通り夫の両親を家に招き、ケーキを分け合って祝うつもりだった。
「去年と同じケーキでいい?」と聞くと、
「いらない」と答えがあった。
「じいじばあば呼ばないの?」
「ママがそうしたければどうぞ」
その言い方に千佳子はムッとした。
「そうしたければって何?」と声を尖らせて問うと、
「ママって、なんでもイベントにしたがるから」
「なんでもイベントにしたがるって何なの?」
文香は答えず、自室に引っ込んだ。
わたし、何か怒らせるようなこと、したっけ。千佳子はここ数日の娘とのやりとりを振り返ってみたが、思い当たる節がなかった。
「ねえ、ちょっと! ふーちゃん?」
返事の代わりにドアが閉まった。
「わかった。いらないのね?」
閉ざされたドアに向かって言葉を投げつけたが、返事はなかった。
「ママって、なんでもイベントにしたがるから」
文香の言葉が、歯の裏にくっついた海苔みたいにまとわりついた。
たしかに、千佳子にとっては母になった記念日だ。不妊治療を続けてもなかなか授かれず、諦めて治療を中断したら文香がお腹に入った。人生で一番思いがけなくてうれしかった授かりものだ。文香の誕生日が巡って来るたび、この子がわたしのところに来てくれて良かったとしみじみとなり、いい子に育ってくれていることに感謝する。それは、母である千佳子の独りよがりな「イベント」なのだろうか。
千佳子は空しくなり、切なくなり、それを通り越して、バカバカしくなった。
「なんなの?」と声に出た。
去年まで、ケーキを楽しみにしてたくせして、なんなの?
親の気も知らないで、なんなの?
一人で大きくなったような顔して、なんなの?
たかだか誕生日ケーキ一つのことではないか。こんなことで思い煩い、振り回されるなんて、時間の無駄だ。やめた。やめた。やめだ。誕生日なんて知らない。ケーキもなしだ。唐揚げもなしだ。それとも、嫌味ったらしくローストチキンなんか出して、前の年よりひと回り大きなケーキを買ってやろうか。文香がうっかり喜んだら、やっぱりあったほうがいいでしょと恩着せがましく言ってやろうか。
そんな大人げないことを考えたり打ち消したりしているうちに誕生日当日を迎えた。
パートの先輩の野間さんに事情を話して相談すると、
「誕生日ケーキの顔してないケーキにすれば?」
と明快な答えをくれた。スーパーのスイーツ売り場は、その手のケーキが充実している。いちごものっていない、スポンジ生地でクリームを巻いただけのシンプルなロールケーキを買って帰った。
いつもの年よりめでたい気分が削がれているのを言い当てるように、容器には「2割引」の値引きシールが貼られていた。千佳子を煩わせ続けた「誕生日ケーキどうする?」問題に、値引きシールつきのロールケーキは、これ以上ない鮮やかな決着をつけてくれた。
千佳子の意地を知ってか知らずか、文香は何も言わず、出されたロールケーキをぺろりと平らげた。3人で食べ切るには量が多いので、4つに分けて、ひと切れ残したのだが、そのひと切れも文香はその日のうちに食べた。
スポンジはふわふわでクリームは軽やかで、値引き前の定価でも街のケーキ屋の半額以下だ。これで十分じゃないかと千佳子は思い、では街のケーキ屋にしかない付加価値は何だろうと考えた。プラスチック容器ではなく、紙の箱に納められ、店の名前の入ったシールが貼られていること以外に。
夫には事情を話してあった。文香が「ケーキいらない」の意思を伝えたのは千佳子に対してであって、夫にではない。夫が用意した誕生日ケーキなら素直に受け取る可能性はあったが、「君に任せるよ」と夫は言った。頼りにはならないが、かき回されるより、いいのかもしれない。
文香の誕生日にスーパーの値引きシールつきロールケーキを食べた経緯を「話していいこと」と「話さないほうがいいこと」にふるい分けながら夫の母に話すと、「そんなことがあったの」と千佳子が話した分量の何十分の一ほどの短いながらも同情のこもった反応があった。
夫の母はよく話す人で、普段は千佳子が聞き役だ。息子の嫁がこれほどしゃべるのを初めて見たかもしれない。聞いて欲しいことがほとばしったのではなく、堰き止めていた話をあふれさせただけなのだが。
「学校が忙しいみたいで今年は家族だけでお祝いしますとお義母さんにはお伝えしていたんですが、家族でもちゃんとお祝いしてなかったんです。学校で何かあったのか、何がひっかかっているのかわからなくて。聞いていいのかどうかも迷ってしまって。文香とは、それからは、いつもより口数が少ないかな、ぐらいで年を越したんですけど、お正月にこちらにご挨拶にうかがったとき、いつもと様子が違いました?」
「さあ、どうだったかしら」と夫の母が首を傾げたので、千佳子は「あれ?」となった。
「でも、お義母さん、わたしが動揺しているの、気づかれてましたよね?」
「そうなの?」
「え? さっき、狼狽の季節って……」
夫の母は少し考えて、ああと息をつき、それから、ふふふと笑い出した。「ふふふ」と文字に書き起こせそうなくらい、はっきりと朗らかに笑うので、千佳子もつられて笑い出しそうになる。
「ロウバイってね、この花の名前」
夫の母が笑いながら、指を揃えた右手を床の間に活けた花に向けた。鞠のように丸くて黄色い花が可愛らしい。狼狽していて気づかなかったが、華やかな香りがする。
「花の名前だったんですか」
千佳子は早とちりに気づいて赤面する。もっと早く言って欲しかったが、指摘する隙を与えなかったのは千佳子自身だった。
「ロウバイって、どんな字を書くんですか?」
「ロウソクのロウに梅」
そう言われても、ロウソクの漢字が思い浮かばない。「虫偏に、山のほうのリョウシのリョウの右側」だと字解きされて、「蝋」の字が頭の中で組み上がる。
「すみません。勘違いして、余計なことベラベラしゃべっちゃいました」
「私は聞けてうれしかったわ」
「うれしかった、ですか?」
「母と娘って、こんな感じなんだなって」
夫は一人っ子なので、夫の母は男の子しか育てていない。文香の話を千佳子から聞いて、女の子の子育てを想像できた。そういう意味だと千佳子は受け止めたのだが、
「娘に相談される母親って、こんな感じなのね」
夫の母が言う「娘」は、千佳子のことだった。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第56回 佐藤千佳子(20)「ママ、娘よりも成長してない?」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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