第69回 伊澤直美(23) 母乳神話のスッタモンダ
娘が生まれたことを母に連絡しなくてはと思いつつ、その機会を逃したまま春になった。無我夢中で初めての子育てと格闘しているうちに冬が終わっていた。まとまった睡眠を取れず、一日一日は長く感じられるのに、気がつけば、ひと月、ふた月と時間が飛ぶように過ぎていく。
1月の半ばに優亜が生まれてからの数か月、直美は母乳に振り回されていた。
母乳開通の第一関門は難なくクリアしたのだが、思ったように出ない。流通のルートはできているのに、生産量が追いついていない。せっかく3300グラム超えで産んだのに、産後3日で500グラムも減ってしまい、母乳に湯冷ましを足して飲ませることになった。
「水増し母乳って、詐欺みたいですね」と直美が嘆くと、
「薄めすぎて酔えないお酒みたい?」と産婦人科の先生は茶目っ気たっぷりに言った。
このとき先生が水増し母乳を飲ませた方法に直美は目をみはった。哺乳瓶についている乳首を外し、コップで飲ませるように、瓶の縁に口をつけさせたのだ。
「ある程度大きくなるまで、吸うことしかできないのかと思ってました」
「おっぱいも、吸ってから飲み込むでしょ」
言われてみれば、そうだった。
退院しても母乳の出は良くならなかった。授乳は「右10分左10分」が目安だと言われたが、「右1分左1分」かける10を1セットにして、「反復横跳び」と直美は自虐を込めて呼んでいた。
水増ししても足りないので、粉ミルクもあげることにした。手作りの食事が理想だけどテイクアウトもする、みたいな感じで、直美は割り切っていたのだが、優亜を抱いて出かけると、世間の母乳信仰の根深さを思い知らされることになった。
教えてくれたのは「良かれ教」の人たちだ。
「可愛いわね」
「生まれたばかり?」
「何か月?」
「女の子?」
「名前は?」
などと赤ちゃんに向けられていた関心が突如、
「母乳?」
と母親に向けられる。いきなり踏み込んで来る相手にひるみつつ、「ミルクと半々です」と答えると、今度はその理由を聞いてくる。さらには、母乳の出が良くなる食べ物や漢方薬やマッサージを教えたがる。
わたし、困ってないんですけど。
というか、あなたに困ってるんですけど。
良かれ教を煮詰めたような母乳信者に遭遇するのが怖くて、出かけるのが億劫になった。
イザオの母にも母乳信者の匂いを感じていたので、彼女が訪ねて来る日は粉ミルクの缶が目につかないように隠しておいたのだが、ネット通販でまとめ買いしたミルクがタイミング悪く届いてしまった。
「あら? おっぱい出てないの?」
ダンボール箱に印刷された商品名を見て、予想通りのツッコミが入った。
「量が足りないので」と直美が言うと、「ちゃんと栄養のつくものを食べているの?」だの、「おっぱいマッサージは受けたの?」だの、これも予想通りのお節介が返ってきた。
「ミルクなんてかわいそう」も「母乳で育てないと、母性が育たないわよ」も良かれ教の人たちに言われて免疫がついていたおかげで、直美は余裕で受け流せたのだが、
「仕事に栄養取られちゃったのね」
などと言われたのは初めてで、イザオ母が帰ってからもムカムカがおさまらなかった。
「母乳が出ない父親はどうなるんだよ?」
と直美を慰めるつもりで言ったイザオに、
「それお母さんに直接言ってよ」
と八つ当たりし、
「母乳100%じゃなきゃダメなんですか? 手抜きなんですか?」
と亜子姉さんに電話で泣きついた。
「何言ってんの? 母乳のほうが手抜きだよ。夜なんて、出しっぱなしでセルフでどうぞでいいし。粉ミルクは、起き上がって作って出して、飲み終わるまでつきっきりで哺乳瓶持っててあげないといけないんだから、どんだけ手間がかかると思ってんの!」
亜子姉さんらしい言葉で力いっぱい励ましてもらい、少し気持ちが軽くなった。
無料母乳相談会のお知らせが目に止まったのはそんな頃だった。参加してみると、指導に当たった助産師の先生は、年恰好も話し方もイザオ母に似ていて、双子かと思うほどだった。
母乳信者の教祖のような人で、「母という漢字はおっぱいをあげる姿を象ったもの」に始まり、「授乳は母親だけに許されたコミュニケーション手段」だと言い、赤ちゃんのどんな症状も母乳と結びつける。
「うちの子、肌が荒れているんですけど」
「それはおっぱいが悪いからです」
「おむつかぶれがひどくて」
「それもおっぱいが悪いです」
といった具合で、「うちのダンナ、育児を手伝わないんですけど」と言ってもおっぱいのせいにしそうな勢いだった。
直美はメモを取りながら、「おっぱい先生」とあだ名をつけた。
乳製品や卵を取ると湿疹やアトピー性皮膚炎になりやすいらしく、赤ちゃんの不調と母乳は密接な関係にあるのだろうとは思うものの、気候やおむつ内の湿度だって関係あるはずで、母乳だけが悪者にされては、出しているほうも立場がない。
「うちの子、手足が冷えるんですが」
「それは、おっぱいが冷えているんです。お母さんの食べているものが悪いんです」
「うちの子、寝てくれないんです」
「母乳が甘いと、赤ちゃんは眠りが浅くなります。甘いものをやめればぐっすりです。洋菓子はもってのほかだけど和菓子もダメ。赤ちゃんは小豆が嫌いです。砂糖は一切ダメ。味付けはみりんで。栗やさつまいもも甘みが出るから控えめに」
おっぱい先生の指導通りの食生活を送れば、母乳はすばらしい品質向上を遂げるのかもしれない。でも、その前に自分が干からびてしまいそうだ。赤ちゃんの眠りが深くなっても、母親が不眠になってしまう。
「おっぱいが悪い」を連呼していたおっぱい先生が、おっぱいに同情を見せた場面が一度だけあった。
「うちの子、8時間ぐらい寝るんです」
「それはおっぱいに悪いです」
「おっぱいが」ではなく「おっぱいに」悪い。それだけ長い時間溜めておくと乳腺炎になるという。
赤ちゃんが眠らないのはおっぱいが悪い。
赤ちゃんが眠りすぎるのはおっぱいに悪い。
母乳の世界は奥深すぎた。
少しずつ母乳工場の生産量が上がり、ようやく「右10分左10分」のペースができた頃、今度は保育園の入園に向けて、ミルクに慣らさなくてはならなくなった。母乳を飲ませたいときには出てくれず、母乳が出たときには飲ませてあげられない。
保育園に預けている間、在庫を抱えた乳房が張ると、優亜に引っ張られているような気持ちになる。小さな手をグーパーさせる仕草でおっぱいをねだる姿が目に浮かぶ。
会いたい。
抱っこしたい。
飲ませてあげたい。
恋しさが募るが、それはかなわず、胸が痛む。二重の意味で。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第70回 伊澤直美(24)「めぐるいのちを母乳にのせて」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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