第193回 佐藤千佳子(65)ベンチうらない
「ママ、それどこ?」
日曜の朝。千佳子がスマホで写真を見ていると、起きてきた娘の文香が画面をのぞき込んだ。
「サツキさんが送ってきたの」
「誰から、じゃなくて、どこ?」
芝生が絨毯のように広がり、背景には新緑が生い茂る木立。見渡す限りの緑にポツンと白木のベンチが置かれている。ポストカードになりそうな絵になる風景だ。
「草津温泉に行く途中で立ち寄ったガーデンだって」
「あ、日本なんだ?」
「外国だと思った?」
「うん。イギリスとか」
イギリスっぽいねと母娘で言ってから、「知らんけど」とエセ関西弁でおどけてつけ足した声が揃った。
「揃った」と千佳子は言い、「かぶった」と文香は言う。
そこは揃わないのか。
「ここのガーデンに行けば、イギリスに行った気になれるかも。ふーちゃん、夏休みに行こっか?」
何気なくそう言ってから、あ、ふーちゃん受験生だったと千佳子は思い出し、思ったそのままの言葉が同時出力で口から出た。
「そうだよー。受験生だよー」
文香はおどけて言ってから、「パパとふたりで行ってきたら?」と続けた。
「パパとねえ」
千佳子は言葉を濁す。
今も寝室は共にしているのだが、旅先で同じベッドに入るのは、なんだか気が重い。
夫が最後に千佳子に触れようとしたのは、文香が小学校の修学旅行に出かけた夜だった。まだその意志があったのかと驚いた。想定外かつ突然で、体のほうでも準備が整っておらず、訪問者が来ないことに油断して、ムダ毛が伸び放題になっていた。
千佳子が拒むと、夫は伸ばした手を引っ込めた。
文香は高校3年になった。あれから6年経ったことになるが、あれ以来、夫は手を伸ばしてこない。だが、場所が変われば気分が変わるということはある。今、夫とふたりきりで旅行に出かけ、いつもと違う環境で夜を過ごすことになったら、いつもは起きない衝動が起きてしまうかもしれない。
そんな事態を期待しているのか、していないのか、自分でもよくわからない。雨が降るのか降らないのかはっきりしない空模様だと予定が立たないのと同じで、あるならある、ないならないとはっきりしてもらいたい気持ちはある。あるかもしれない事態に備えて、ムダ毛を処理する必要が出てくるし、下着のチョイスも変わる。などとあれこれ考えるのも煩わしい。
「パパと行くくらいなら、他の人と行くよ」
「他の人って? サツキさん?」
「サツキさんは、ここ行ったばかりだから」
今、誰かを旅行に誘うとすれば、サツキさんだろうか。その前なら野間さんだった。野間さんの抜けたところにサツキさんが入った。
けれど、野間さんとの旅行を計画したこともないし、考えたこともなかった。夫はともかく、娘を置いて旅行に出かけるという発想がなかった。そういう選択肢があることを忘れていた。
「ふーちゃんとパパを置いて旅行するの、ありなの?」
「たまには、いいんじゃない?」
「ふーちゃん、受験生なのに?」
「家出するわけじゃないんだから」
「そっかー。えー、行っちゃおうかなー。誰誘おう」
にわかに浮上した選択肢に心が浮き立つ。母親にだって有給休暇が必要だ。
千佳子は今一度、サツキさんから送られた写真に目をやる。
サツキさんからは他にも色とりどりのバラの写真が送られてきていたが、千佳子が心惹かれたのは、バラよりもベンチだった。
「暑くて汗だく」とサツキさんのメッセージが添えられていたが、千佳子の脳内では爽やかな風が吹き渡り、ひなたなのに木陰の心地良さを備えた都合のいいベンチになっている。
そのベンチに腰を下ろす自分を想像する。
隣にもう一人腰を下ろせるようにスペースを空けておく。
誰に座ってもらおうか。
そう考えて、候補がいないことに気づいた。
「ふーちゃん、どうしよう。誰も思いつかない」
「一緒に旅行する相手?」
「今ね、このベンチに誰と座ろうかって思ったんだけど、誰も思い浮かばない」
「このベンチが旅の目的なの?」
「そう。ここに行きたいの」
「こういう場所が好きそうな人、ママの周りにいなかったっけ? ハーブのマイさんとか」
千佳子のパート先のスーパーマルフルに時々現れる、ハーブコンシェルジュのマイさん。出会いは、マイさんがデモンストレーション販売に来たときだった。以来、お客さんとして買い物に来るマイさんと顔見知り以上友人未満のような関係が続いている。マイさんは千佳子を友人として人に紹介してくれるのだが、千佳子はまだ肩を並べることに遠慮がある。太陽のような眩しさと不釣り合いな月を自覚してしまう。
「マイさんの専門はハーブだからね」
よくわからない理屈で千佳子は誤魔化す。マイさんと一緒に旅行に行くにはまだ早いし、行くとしたら、マイさんがいつもの情熱的な口調でマイさんがハーブを語るのを聞いている気がする。ベンチに並んで腰かけて、同じ方向を向いている自分を想像できない。
千佳子がそう言うと、「性格診断テストみたいだね」と文香が言った。
「性格診断テストって?」
「ベンチの隣に誰が座るかっていう答えで、その人の考えていることがわかるの」
「どうわかるの?」
「例えばさ、どんな腕時計が欲しいかって質問だと、一生のパートナーに何を求めるかがわかるっていうじゃない?」
「そうなの?」
「ママ、どんな腕時計が欲しい?」
「もう何年もしてないよ」
千佳子はそう答えて、「何年もしてない」という自分の言葉にドキリとする。腕時計もしてないし、夫ともしてない。
「じゃあ、パートナーいらないってこと? パパいらない? ウケる」
どこまでわかっているのか、文香が笑う。
「で、ベンチの隣の人の質問は、何がわかるの?」
「なんだろね」
文香は少し考えてから言った。
「隙間を埋めてくれる人とか?」
その言葉に呼び出されたかのように、千佳子の脳裏に一枚のポスターが浮かんだ。
パセリ先生……。
文香の動画配信講座の英語の先生として知ったパセリ先生が主演した舞台のポスターだ。手を取り合う相手の女性は、共演者ではなく千佳子になっている。動画になって夢に出てきたこともあった。
そうじゃない。彼じゃない。もはや。
千佳子は慌てて頭の中で打ち消し、ポスターを追い出す。
パセリ先生は今や、野間さんの留守宅に越してきた人であり、その妻はチューリップバッグの作者さんであり、夫婦でスーパーマルフルにやって来るときの普段着は、力が抜け過ぎている。何より、動画を録画してから数年経つ間に、その分だけ歳を取った。結婚したこともあり、目尻も口元もシルエットも全体的にゆるんで、動画の7掛けぐらいになっている。
いっとき憧れたパセリ先生とスーパーマルフルに買い物に来る彼は別人だと千佳子は思っている。
勝手に持ち上げられて落とされて、いい迷惑だろう。そんなこと、もちろん本人に知られてはならないし、文香にも言えない。
だけど、ベンチの隣に座ってもらうだけなら……。
千佳子は考え直す。舞台のポスターのように見つめ合う対象ではなく、旅行に行く相手ではなく、並んでベンチに腰かけて、同じ方向を見るだけなら……。
以前ほどときめきを覚えなくなった分、気後れもしなくて済むようになった7掛けのパセリ先生は、いい候補かもしれない。
ふふっと文香が笑ったので、考えていることを見透かされたのかと千佳子は焦り、「何?」と短く聞いた。
「ママさ、ベンチに自分が座る前提になってる」
「え? だって、自分の隣に誰が座るかって質問じゃなかった?」
「そうなんだけど、昔のママだったら、自分が座っていいのかどうか、迷ってたなって」
言われてみればと千佳子は思い出す。自分から母親であることを抜いたら何が残るのだろうと悶々と考えていたのは、文香が中学校に上がったばかりの頃だっただろうか。あの頃、同じ写真を見て、「このベンチに誰と誰が座っている?」と聞かれたら、そこに自分を含めなかったかもしれない。
「ママが図太くなったってこと?」
「自分の居場所があるって思えてるってことじゃない?」
次回7月5日に佐藤千佳子(66)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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