第204回 多賀麻希(68) 何を返して欲しかったの?
あれ? 今セリフ飛んだ?
「だったら、時間を返して」と「そうさせてください!」がつながらない。
DVDで映画を観ていて、「今セリフ飛んだ?」となったときは、ボタンひとつで30秒巻き戻せる。便利だが、そんな機能があるからテーブルの上にスープのこぼれた跡を見つけて拭いたり、壁際に溜まった埃をかき集めたくなったりしてしまうのだとも思う。映画館で観るときは巻き戻しボタンがないから、スクリーンに集中するしかない。映画館にはスープのこぼれた跡が残るテーブルも埃の溜まる床もないのだが。
現実の会話にも巻き戻し再生機能はなく、時間は一方向に流れている。だから、モリゾウの家庭教師最終日、押しかけ生徒の高校3年生のフミカとの会話で「今セリフ飛んだ?」となったとき、多賀麻希は直前のやりとりを頭の中で振り返った。
「どうやってお礼をさせていただいたらいいでしょうか」とフミカ。
「いいんです。夫が決めたことなので」と麻希。
「でも……」と口ごもるフミカ。
「だったら、時間を返して」
「そうさせてください!」
なぜそうなる? やはりつながらない。
フミカのほうで麻希のセリフが飛んだ可能性がある。「時間を返して」を他の言葉と聞き間違えたのだろうか。「みかんを返して」とか。いや、みかんは貸していない。休憩のおやつに出していない。
「ごめんなさい。感じ悪いこと言っちゃって。時間を返してって言ったの。あなたがうちで夫に英語を教えてもらった時間。それをわたしに返してって」
言わなきゃいいのにと理性はブレーキをかけるけれど、言っちゃえよとけしかける衝動が言葉を押し出した。
フミカは目をそらさず、澄んだ瞳で麻希を見ている。その瞳に映る自分はどんな顔をしているのだろうか。
「いいのいいの、本気にしないで。ちょっと言ってみただけ」
「はい! そうさせてください! 復習につき合ってください!」
フミカは声の明るさを保ったまま言った。
「復習?」
思わず聞き返した。どうしてそうなる?
時間を返してと言ったのに、さらにわたしの時間を奪うつもりなのか?
この子は空気が読めないのだろうか。難関大学を目指しているらしく、お勉強はできるようだが、単純なやりとりはできないのだろうか。あるいは、天然ボケを演じているのだろうか。だとしたら、計算高い。どっちにしても話が噛み合っていない。
「勉強したことを誰かに話すと復習になって記憶が定着するって、タダト先生に言われたんです」
「誰かって、おばあちゃんかお母さんじゃダメなの?」
「もちろん祖母と母にも聞いてもらうつもりです」
そんなわけで、フミカの最終日は最終日でなくなった。2学期が始まってもこの家に通っている。毎週日曜の午前中にやって来て、夏の間にモリゾウから教わったことを麻希に聞かせている。その間、モリゾウは出かけている。英語はもちろん日本語になっても麻希には意味がわからないから、麻希は何も口を挟まず、聞いているだけだ。フミカは「なるほど」と一人でつぶやいて、マーカーを引いている。
人の形をしたものがあればいいのなら、あれでもいいではないかと麻希はトルソーに目をやる。
初めてこの家に来た日、トルソーに着せた田沼深雪のウェディングドレスを見て、何も知らないフミカは「マキマキさんが着たドレスですか?」と無邪気に聞いた。「だって、庭にクローバーが植っているから」とも言った。
濁りのない透明なガラス玉のように澄んだ声が麻希の頭の上を転がって通り過ぎていく。きれいすぎて、引っかかるところがなくて、邪魔にならないBGMみたいだ。
声にも抑揚にも不純物が混じっていない。声の主が純粋なものでできている表れのように、朗らかで、真っ直ぐで、迷いがない。どれも麻希は持ち合わせていない。
すっきりと片づき、鏡や水回りが磨き上げられた旅先の宿から帰宅すると、住み慣れた部屋が薄汚れて感じる。これまで気にならなかった壁のシミが目につく。「これでいい」と思っていたラインが引き上げられ、引き算を始めてしまう。
同じことが今、起きている。
フミカの清らかな声を聞いていると、自分の中の汚れた部分が浮き上がってくるようで心が波立つ。
どうしてこうなる?
佐藤美枝子はいつも余計なことをする。
そう言えばと思い出したのは、去年の5月、この家に住むかどうかを決めるため、アムステルダムから一時帰国中の野間さんに中を見せてもらった日のことだ。
家主がいたら検討しづらいだろうと野間さんが気を利かせて、家を離れてくれた。麻希が玄関の鍵を閉めに行くと、モリゾウが追いつき、ドアの向こうで門を開け閉めする音が聞こえる頃にはキスが始まっていた。引っ越すとお盛んになるとバイト先の新宿三丁目のカフェのマスターに言われたときは、何を言ってんだかと笑ったが、引っ越す前から火がついてしまった。
モリゾウの大きな手がシャツの中に入ってきたところにチャイムが鳴り、親の留守中に自宅で盛り上がっていた高校生カップルみたいにパッと体を離した。
そのチャイムを鳴らしたのが、佐藤美枝子だった。何度もしつこく「キワコちゃんいる?」と呼ぶのでドアを開けると、野間さんより少し年上、70代ぐらいに見える老女が立っていた。「ミエコです」と名乗り、野間さんが留守だとわかると、「また来ます」と年齢の割には若々しい足取りで立ち去った。
「息子さん?」と勘違いされたモリゾウが「今度、こちらをお借りして住むことになりまして」と夫婦で結論が出る前に言ってしまい、それが事実になった。
「また来ます」の言葉通り、以来、佐藤美枝子は度々チャイムを鳴らし、思いがけないものを置いていく。夏の間だけのはずだった孫の家庭教師の名残が秋になっても続いている。それを招いてしまったのは、麻希の不用意な発言なのだが、「時間を返して」からこの展開を読めるわけがない。
「どうやってお礼をさせていただいたらいいでしょうか」と大学入試を控えた高校3年生に言われたら、
「良い知らせを待っています」と微笑んでオトナの余裕を見せれば良かったのではないか。
高価な口紅を贈られた女性が贈り主の男性にお礼を伝えたら、「少しずつ返してくれたらいいよ」と言われた。そんなやりとりを教えてくれたのは、最初に勤めた映像製作プロダクションの社長だ。
夜逃げ同然で消えた社長のこってりした関西弁と、日焼けなのか酒焼けのなのか、いつも赤黒かった顔が脳裏に蘇る。
事務の同僚で歳が近かった美優ちゃんは「ロマンティックですね」と言ったが、麻希は「重い」と思った。口紅一本ってキス何回分だろうと想像して、気が重くなった。両想いだったらいいけれど、片想いだったらホラーだ。その一本が終わるまでにどちらかの気が変わる可能性だってある。
当時まだ20代で恋愛経験も乏しかったくせに、口紅に夢を見ることもできないくらい、すでに傷ついて失望していたのだ。
「時間を返して」
思わず口から出たその言葉がどこから来たのか、麻希は思い至る。夫の時間を取られるとか、夫婦の時間を邪魔されるとか、そんな最近のことではなかった。あのときの子を産んでいたらの想像よりもさらに前。
わたしがフミカぐらいの歳だった頃。
教科書に火をつけるまで追い詰められた自分の高校時代とフミカが生きている今は、あまりにも違いすぎる。
あの頃には戻れない。人生は編み直せない。けれど、こんなに真っ直ぐ未来を信じて、キラキラした目で英語を見つめ、澄んだ声で読み上げる17歳だったら、どんなわたしになっていただろう。
次回11月1日に佐藤千佳子(69)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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