第52回 伊澤直美(18) 受精卵だった頃の名残
「今日初めての伊澤直美さん。今、36週ですね。体は、どうですか」
「重いです」
インストラクターの問いかけに直美が答えると、和やかな笑いがこぼれた。
マタニティビクス教室を知ったその日に申し込みを決めた。2日後の午前にレッスンがあると聞き、午前半休を取って、初めてのレッスンを受けることにした。直美の他に十人いる妊婦の週数は14週から39週までとまちまちで、お腹の膨らみも大小様々だ。
おなかが大きくなると安静にして予定日を迎えるものだと思っていたのだが、30週を過ぎてからが一番体を動かせる時期で、妊娠36週以降の臨月になっても踊れる。ズンズンと振動を与えると陣痛が来やすいとかで、予定日を過ぎた人も来ている。産むぎりぎりまで動き回れる。安産のためにできることがある。亜子姉さんが言っていた「自分主導」だ。
カルテのようなものを見ながら、インストラクターが一人一人の体調を聞いていく。
「ソケイ部が痛いです」
「むくみが辛いです」
「背中がかゆいです」
「なかなか寝つけません」
「便秘が続いてます」
3人産んでいるというインストラクターが自らの経験を交えて、対処法をアドバイスしてくれる。ソケイ部というのは足のつけ根のことらしい。たしかに痛くなったと直美は思い出す。
「足が引きつったら、つま先を体側に倒せばいいのか」
「背筋痛には猫のポーズが効くのか」
妊娠39週の妊婦さんは、「いつ破水するかわからなので、オムツを持ち歩いています」と言った。
「あの腹巻きみたいなやつね。お守りとして持っておくといいですね」とインストラクターは言った。
破水用の腹巻きみたいな長いオムツが存在することを直美は最近知ったのだが、まだ手に入れていなかった。お守りとして持ち歩くの、いいな。ここに来れば、自分より週数が進んでいる人の話や悩みを聞ける。数週間先の自分の身に起こることをシミュレーションできる。もっと早く出会っていたらと思うが、産む前に間に合って良かった。
10分ほどの問診タイムに続いて、レッスン。まずはウォーミングアップ。壁を両手で押しながら、かかとを上げ下げ。むくみ対策らしい。それから、鏡貼りの壁を前にダンスタイム。やってみると、窓の外から見たとき以上に激しい。そして楽しい。右へ左へステップを踏みながら移動したり、ボックスステップを踏んだり。飛び跳ねる動きはないが、足はバンバン踏み鳴らす。
集団タツノオトシゴ群舞。
この眺めをイザオに見せたいと直美は踊りながら思う。妊婦ってこんなに動けるんだよ、こんなに力強いんだよと自慢したい気持ちになる。
休憩を挟んで1時間のレッスンで、シャツは汗びっしょりになった。
レッスン後の着替えタイムがまた楽しい。
「おなかの下に妊娠線できてショックー」
「膨らんでるから塗り忘れちゃうんだよね」
「妊娠線予防、何使ってる?」
週数の近い妊婦同士で情報交換したり、週数が少し進んだ先輩妊婦に「20週の頃ってどうでした?」「胎動って、いつ頃から感じるんですか」と質問したり。
「ねえねえ、おなかのまわりに毛が生えてきちゃったんだけどー」
「私もー」
「良かった。私だけじゃなかったんだ」
「大切なところを守るために毛が生えるんだって」
「なるほどー」
直美より週数も年齢も若い妊婦さんが盛り上がっている。ふたりとも茶髪の根元が数センチほど黒くなっている。
「でも、すごいんだけど。ヒゲみたいになってる」
「え? 見せて見せて」
お腹を出して、おへそまわりの品評会が始まる。
「それほどでもないじゃない」
「同じぐらいだね」
直美は横目でそっと見せてもらい、「みんな生えてるんだー」と安心する。お腹のまわりに毛が生えるのは自然なことというのはネットで調べて確認していたが、自分以外の妊婦に生えているのを生で見たのは初めてだった。
「ヘンなのは自分だけじゃない」とわかるだけで気持ちが大きくなる。
「あの、わたし、おなかにヘンな縦線が出てきたんですけど、皆さんにもあります?」
直美が恐る恐る聞くと、
「セイチュウセン!」
何人かの声が重なった。
おへその上下に浮かび上がった茶色い線。それが「正中線」というものであることは、直美もネットで情報を得ていたが、「みんなにもあるんだ」と安心する。
「正中線って、受精卵がくっついた跡なんですよね?」
これまたネットで仕入れたことをそのまま直美が告げると、
「あれだよね? 生物の教科書に載ってた受精卵の真ん中のくっきりした線」と39週の妊婦さんが言った。
「ああ、あれなの?」と直美は驚く。
最初の細胞分裂で受精卵が左右に分かれる、あの真ん中の線。あれが自分の体に留まっていて、妊娠とともに、あぶり出しみたいに現れたというのか。
先輩妊婦さんの受け売りなんだけどと言って、39週の妊婦さんが続けた。
「人間の体って、左右に分かれた細胞がそれぞれ分裂して、出来上がるんだって。だから、鼻の下のくぼみも、唇の真ん中のへっこみも正中線なんだよね」
「へーえ」と着替え中の妊婦から感嘆の声が上がる。
自分は卵から出発し、細胞分裂を繰り返して、ヒトの形になった。その名残を今も体に留めているのだ。そう思うと、茶色いシミみたいに思えて悲しくなった正中線に愛おしさが生まれる。
「不思議なんだけど、出産すると、自然に消えるんだよね」
とインストラクターが言った。おへその上下に浮かび上がる茶色い線は、3度の妊娠で、3回現れて、3回消えたと言う。
「期間限定のメッセージみたい」と直美が言うと、
「ほんとだ」「たしかに」と妊婦たちがうなずく。
お腹に命を宿した頃に届く、期間限定のメッセージ。
あなたは卵から始まったんだよって思い出させ、お腹の卵も大事にねって教えてくれているのかもしれない。
送り主は卵だった頃の自分。もしかしたら、もっと遠い命のつながり。
生命の神秘だなと直美は思う。どちらかというと現実的で、過去を振り返るよりは目の前を見ていたい性格なのだが、時空を超えた手紙を受け取ったようなロマンを感じる。直美以上に、イザオが聞いたら喜びそうだ。
「おへそにヒゲは生えるし、正中線は出るし、妊娠線はできるし、ダンナに見せられなくて」
「電気消せばいいじゃない」
「あ、そっか」
セックスレスの話題が始まる。
レスが話題になるということは、それまではあったということだと汗で湿ったシャツをビニール袋に放り込みながら直美は思う。定期的な営みの成果が、お腹の膨らみなのだろう。レスの合間に久しぶりに交わったら授かったという直美夫婦のようなケースは、レアなのかもしれない。
「妊娠を機にレスになっちゃう人が多いんだけど、どんどんコミュニケーション取ってくださいね」
3人産んだインストラクターがそう言うと、照れの混じった笑いが起こり、妊婦たちが活気づく。
「コミュニケーションっていいね」
「これからはアレをそう呼ぼう」
「レッツコミュニケーション」
受精卵が結実するきっかけを作った日からイザオとコミュニケーションを取っていない。あの日が最後になるのだろうか。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第53回 多賀麻希(17)「彼を試す自己開示ギャンブル」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!