第185回 多賀麻希(61)炎に咲く花
これは夢だと夢を見ている麻希は思う。
熊本の実家の裏庭で教科書を焼いた、あの日の夢。燃え盛る炎を見つめて立ち尽くしている背中は、高校生だった自分だ。
だが、灰は舞い上がらず、煙も立っていない。炎が飲み込んでいるのは教科書ではなく、青々と生い茂る草だ。
裏庭を焼き尽くした後に生えてきた草のような明るい緑。炎に包まれても焦がされることなく鮮やかな色を保っている。よく見ると、一面の草はクローバーだ。刺繍糸が描いたクローバーが炎に照り映えている。
風に揺れる花びらのような炎の動きは、クローバーとダンスをしているようにも見える。炎に熱はなく、燃やす力もなく、LEDのキャンドルライトのようにゆらめいている。嘘の炎。だって夢だから。
「ドレスコードが太陽の色なんです」
口元に微笑みを浮かべてそう言ったのは、高校生の麻希の声ではなかった。
視線を感じたのか、彼女が振り返る。麻希の目を見て、何かを告げる。唇は動くが、音声がついて来ない。さっきは声が聞こえたのに。
「ミュートになってる」
夢かうつつか、麻希がそう呟いたところで目が覚めた。
「ミュート」からの連想で「MYUさん」というハンドルネームを思い出す。つい最近、彼女の顔を見たばかりだ。何気なく開いたニュース記事のサムネイル写真で。
結婚披露宴で新婦を囲んだ一枚だった。タレント活動をしているという新婦がインスタに上げた写真が拡散されていた。
最初は新婦の友人の美しさとバッグに注目が集まり、どこで入手できるのかという質問が相次いだが、ケイティが出しているバッグだという書き込みが風向きを変えた。ケイティのものとは違うようだがプレミアム仕様なのか、関係がないのに酷似しているのか。だとしたら、どちらが本物なのか。
スマホを開いている時間は世間の平均よりずっと短い麻希に届くということは、それだけ騒ぎの半径が大きくなっているということだ。
何年か前にもネットの匿名掲示板で小さな論争はあった。
《ケイティさんがご自身のブランドで出されているひまわりの形のバッグが、makimakimorizoというショップの一点もののバッグによく似ています。偶然でしょうか》
質問を投げかけた書き込みにはオンラインショップのURLが添えられていた。
デザインを盗まれ、名誉を傷つけられた自分以外の一体誰がわざわざこんなことをしてくれるのだろう。その人に何の得があるのだろう。不思議な気持ちで眺めていたら、
《もしかして、質問者さんって、ショップの方ですか?》
通りすがりの人のコメントに質問者は沈黙した。投げられたボールは宙に浮いたまま、どこにも着地していない。
なのに、今さら、どうして?
そのサムネイル写真には、さらなる驚きあった。ひまわりバッグを手にしている新婦の友人は、麻希の知っている人だったのだ。
makimakimorizoの数少ない依頼人の一人、田沼深雪。田沼は結婚前の名字だから、今は違うはずだ。
《お目にかかって、ご相談したいことがあります》
MYUというハンドルネームで彼女がコンタクトを取ってきたのは、匿名掲示板で質問者が黙った少し後のことだ。もしかしたら、その人だろうかと最初は思った。そうでなければ、ケイティの関係者か。
服飾専門学校の同級生だったとき、麻希のデザインをフリー素材のように利用していたケイティは、したたかさと厚かましさを進化させていた。ひまわりバッグのデザインを盗んだ上に劣化版を売り出し、「オリジナルはひまわり」だと麻希に開き直った。
体に力が入らず、何も手につかなくなり、バイトも休んでいたが、待ち合わせ場所に新宿三丁目のカフェを指定し、カウンターの中からマスターに見守ってもらった。彼女が現れた瞬間、ケイティとは無関係だと直感した。ケイティは自分を霞ませるような人をそばには置かないから。形の良いパーツがあるべき距離感と角度とバランスで配置された顔。完成された美しさとケイティには出せない清潔感があった。メイクで足し算はできても引き算は難しい。
初対面の麻希に、彼女はウェディングドレスを託した。かつて母親が着て、今度自分が着ることになったというそのドレスには、ところどころにシミや黄ばみがあった。
あのとき、麻希は聞いたのだ。自分のことをどこまで知っているのかと。意外なことに、ケイティのひまわりバッグのことを彼女は知っていた。それで麻希のひまわりバッグの存在を知り、作り手である麻希に会いたくなったのだと話した。
なのに、どういうことだろう。
田沼深雪がひまわりバッグを持っている。
伊澤直美が田沼深雪に譲ったのだろうか。あるいは、披露宴のこの日のために伊澤直美が貸し出したのだろうか。それとも、伊澤直美が田沼深雪だったのだろうか。クレジットカードの名義は購入者と同じ伊澤直美だった。カフェで会ったときに出されたアイタス食品の名刺には田沼深雪と書かれていたが、名刺なんて簡単に偽造できる。
伊澤直美からは購入後、一度だけ連絡があった。盗作のひまわりバッグを手にしたケイティの姿がネットニュースに出た後だ。ひまわりバッグが一点ものであることを確かめる問い合わせだった。
《類似したバッグがありましたら、デザインを盗用した模造品です》
そう返信したが、伊澤直美が納得したかどうかは確かめていない。ケイティが量産品のひまわりバッグを売り出した際にも問い合わせはなかった。伊澤直美が購入したひまわりバッグのその後も追えていなかった。彼女はSNSに上げるタイプではなかったようで、ネット上にあるひまわりバッグは、ケイティが売り出した量産品のものばかりだった。
今思えば、ケイティはひまわりバッグの写真を「撮らせた」のだ。写真を撮られてネットニュースになることがわかっていたから、あえてそのバッグを持っていたのだ。バッグの顔を売るために。プロデュース作品として売り出す伏線を張るために。
田沼深雪はどうだったのだろう。結婚披露宴にひまわりバッグを持って行ったのは、太陽の色のものを身につけて着て欲しいという新婦のリクエストに応えたからだとネット記事で読んだ。ここまで拡散され、物議を醸すことは予想していたのだろうか。それとも、新婦のインスタのフォロワー数と拡散力を知った上で、あのバッグを持って行ったのだろうか。
どちらにせよ、田沼深雪の手によって麻希のひまわりバッグは光の当たる場所に引っ張り出され、かつてより大きな騒ぎの渦の中にいる。
こんな日を待っていた気もするし、恐れていた気もする。そっとしておいて欲しかったという気持ちと同じくらい、忘れないで欲しいと願う気持ちがあった。うやむやにしないで。終わらせないで。ドレスを作ろうとしては足踏みを繰り返しているわたし。前を向いたつもりでも、前に進めない。ケイティのせいで。
ケイティの信者は、数が激減した分、一人一人の切実さを煮詰め、夏の終わりの蝉の合唱のようにケイティを擁護し、叫んでいる。ここまでケイティについて来た人たちの「梯子を外されてなるものか」という必死さは、理解できる。麻希が理解できないのは、麻希のひまわりバッグを擁護する人たちがいることだ。
インスタでは少なくとも5つのアカウントがある。一人でアカウントをいくつも作っているのかもしれないが、麻希でもモリゾウでもない誰かが、麻希のために戦っている。
一体、何のために?
田沼深雪と話してみたい。伊澤直美が購入したバッグをどうして彼女が持っていたのか。今回の騒ぎは予想の範囲内なのか。
《お目にかかって、ご相談したいことがあります》
田沼深雪がコンタクトを取ってきたときと同じ文面を彼女に投げかけた。
次回4月12日に多賀麻希(62)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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