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連載小説『漂うわたし』 第177回 伊澤直美(59)「『ある』がふえていく」

カルチャー

2025.01.11

【前回までのあらすじ】食品会社の新商品開発部で仕事を続けながら同期入社のイザオと一人娘の優亜を育てている直美。優亜を産んだときに流れていた曲を口ずさむと、優亜が生まれたときのことを話し出す。パパが駆けつけたことを覚えている優亜。やはり胎内記憶はあるのか!? だが、パパと一緒に動物たちもお祝いにやって来るお話になっていた。

連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

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漂うわたし

第177回 伊澤直美(59) 「ある」がふえていく

1月22日生まれの優亜は、もうすぐ3歳になる。

保育園での年内最後の身体測定では、身長は88.8センチだった。誕生日の前祝いの拍手のような8並び。体重は12.9キロ。縦にも横にも順調に大きくなっている。

手足も口も、ますますよく動くようになった。冷蔵庫から牛乳を出し、テーブルまで運んできて、

「ゆあちゃん、おてつだいしたね」

と胸を張る。

「あんなに小さかった優亜が、冷蔵庫開けて、牛乳パック取り出して、テーブルに運んでくるんだもんなあ」

イザオは優亜が何をしても愛しくて仕方ないらしい。クリスマスツリーの飾りつけをしたときも、「ちゃんとツリーの枝に引っかけられるようになっただよなあ」と涙ぐんでいた。

直美は、コップに牛乳を注ごうとする優亜から目が離せない。パックの大きさと重さに対して、コップの口が小さい。あの丸の中に牛乳を命中させるのは、優亜には難易度が高いのだ。だが、「ママがやるね」と牛乳パックを取り上げるのは、優亜のやる気を取り上げてしまうことになる。優亜の動きに合わせてコップを動かし、牛乳を迎えに行く。イザオみたいに悠長にデレている場合ではない。

親になってから、直美はしっかりしなきゃと思うことがふえ、大人になっている気がするのだが、一方のイザオはどんどん力が抜けて、無邪気になっている。

生まれたばかりの優亜の小さな指と指切り

「ゆき、ないねえ」

優亜がカーテンを開けたサッシ戸の向こうに目をやる。イザオの上司の堀池さんからにプレゼントされた絵本が雪遊びの話で、繰り返し読んでいる。文字は読めないが、直美とイザオの読み聞かせを何度も聞いてお話を覚えてしまった。

「よるのうちに ゆきがつもりました やねもみちも まっしろです」

絵本の中は銀世界だが、東京はまだ雪が降らない。去年も雪は積もらなかった。優亜はまだ雪遊びを知らない。

絵本を開いて、「ゆき あるねえ」
窓の外を見て、「ゆき ないねえ」

同じものでも「ある」ところと「ない」ところ、「ある」ときと「ない」ときがある。「存在」と「不在」という概念を覚えたばかりの優亜は、「ある」と「ない」を比べたがる。

きっかけは、おむつの卒業だった。

家でも保育園でもトイレトレーニングを熱心にやらず、成り行きに任せようという方針だったので、おむつがなかなか外れなかったのだが、

「おしっこ、ある」

と取り替えるタイミングを知らせるようになり、おむつを替えると、

「おしっこ、ない」

とすっきりした顔になり、言葉の成長に引っ張られるように、秋の終わりにおむつが外れた。

今では売り場に積み上げられたおむつを見上げ、

「おむつ、いっぱい、あるね。ゆあちゃん、おむつ、ないね」

と自慢げに言う。ついこないだまでおむつだったくせに先輩風を吹かせている。

先日、テレビで昭和の日本映画を見た優亜は、電話の受話器と本体がつながっているのを珍しがり、

「ひも、あるねえ。ひも、ないねえ」

とテレビの電話と直美のスマホと比べた。

優亜がお腹の中にいた頃に使っていた「もしもしギア」の形が似ていると気づいて、電話ごっこを始めた。

「もしもし、とうきょうのいざわゆあですけど」

と映画の台詞の口調を真似して、おどける。直美とイザオが笑うのがうれしくて、何度もやってくれる。

ろうととチューブを組み合わせて作った「もしもしギア」

「ケータイがなかった頃って、電話かけると、まず自分がどこの誰かを名乗ったんだよな」

遠い昔のことのようにイザオは言うが、直美が育った家の電話にはコードがついていて、相手の電話番号を示すモニターもついてなかった。親の代わりに電話に出て、相手の名前が聞き取れず、まごまごしてしまった記憶がある。

あったものが消えて、なかったものが現れて。

優亜だって、存在しなかった。

スーパーに行くと、優亜はアイタス食品のパッケージを見つけ、

「パパとママのおしごと、あるねえ」

と知らせてくれる。パパとママが同じ会社で働いていて、その会社がパック豆やレンチンシリーズを作っていることを知っている。パッケージを覚えている。

「パパとママの推し活だな」

とイザオは目尻を下げ、照れる。デレる。そして、

「大きくなったなあ」

と涙ぐむ。

直美は優亜が「おしごと」をどこまで理解しているのだろうと考える。在宅勤務でリモート会議をしているところを見たりもしているが、レンチンシリーズの肉じゃがや豚の角煮をパパとママが作っていると思っているのいるのかもしれない。想像したら、涙よりも笑いがこみ上げる。

年末はおせち料理コーナーで売り場のレイアウトが変わり、いつもの棚に並んでいるレンチンシリーズが見当たらず、

「パパとママのおしごと、ないねえ」

と優亜は店じゅうに響き渡る声で残念がった。

イザオと思わず顔を見合わせ、焦った。他の買い物客が聞いたら、心配されてしまうかもしれない。こんな小さな子を抱えて年を越せるのかしらと。実際、何人かが振り返った。

「違うんです」と否定して「実は、わたしたちが勤めているアイタス食品の商品がいつもの場所になくて」と説明するのも変だ。

「晩ご飯、オムライスにしよっか?」とびきり朗らかな声を出して、心配いりませんよアピールをした。

雪だるまを作る優亜

あのときは焦ったなと思い出し笑いをしていたら、

「雪を見せてあげたいな。誕生日プレゼントに」

朝食を食べ終えたイザオが言った。

「旅行ってこと?」と直美が言うと、
「雪と温泉。どう?」とイザオはお猪口でお酒を飲む仕草を添えた。
「いいね。おむつも外れたし」

優亜にも会話は聞こえていて、「ゆき?」と期待の目で直美とイザオを見ている。

「優亜、雪遊びしに行こっか」とイザオが聞くと、
「行く!」と返事の声が弾んだ。

いつの間にか普通に会話ができるようになっている。ほんの数年前は、ただ泣いているばかりで何を考えているのかわからなかったのに。

「何して遊ぶ? 雪だるま作る?」とイザオに聞かれ、
「ゆきうさぎ、つくる!」と優亜は元気よく答える。

「おー、雪うさぎかー、いいねえ」
「ゆきうさぎと、ゆきねずみと、ゆきことりつくる!」
「いいねいいね。雪ねずみも雪ことりも作ろう。動物王国作っちゃおう」

イザオは子どもみたいにはしゃいでいる。優亜よりも張り切っている。優亜の誕生日にかこつけてイザオが雪遊びしたいだけなんじゃないのと直美は苦笑する。

雪で作った動物たち

「雪きりんと雪ぞうも作ろう」とイザオが言うと、
「ゆききりんとゆきぞうはいないよ」と優亜はきっぱり言う。
「え? いないの? いないのかー」

ぞうの鼻やきりんの首は雪で作るの難しそうだしねと直美は思い、でもきっと優亜の言う「ゆききりんとゆきぞうはいないよ」の理由は別にあるのだろうなと想像する。優亜だけに見えている銀世界には、雪うさぎと雪ねずみと雪ことりはいるけれど、雪ぞうと雪きりんはいないのだ。

直美は雪を固めて作った動物たちを思い浮かべる。丸みのあるおまんじゅうみたいな雪うさぎや雪ねずみや雪ことりを頭の中に並べていく。

優亜が人生に加わってから、「ある」がふえた。今も、これからもふえていく。

罫線

次回1月18日に伊澤直美(60)を公開予定です。

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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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