第161回 多賀麻希(53)巻き込まれ上手になるには
「昨日からまた濃くなってる。そろそろ食べられるんじゃない?」
庭で水やりをしているモリゾウの声が、キッチンでグラスに水を汲んでいる麻希のところに飛んでくる。声を張っているわけではないのに、はっきりと聞き取れる。そうだ、この人は舞台から客席へ声を届けていたのだったと起きがけの頭で麻希は思う。
ミニトマトが日に日に色づいていくのをモリゾウは無邪気に喜び、毎朝歓声を上げる。夏休みの宿題の絵日記で朝顔のつぼみを数える小学生みたいだ。実際、そういう少年だったのかもしれない。
麻希は違うことを考えている。
苗って八百屋で買えたんだ、と。
そのことに気づいていたら、あんなこと聞かなかったし、こんなことにはなってなかった。
スーパーマルフルでやることになったマルシェのことだ。
マルフルの野菜売り場でパセリに目を留めたのはモリゾウだった。最近翻訳した論文にパセリの効能が書かれていて、アンチエイジングにいいらしいと言った。モリゾウの口からアンチエイジングというワードが出たことが意外だった。「健康に投資するのが最もハイリターンなんだよ」とも言った。それも仕事で読んだ論文からの受け売りかもしれない。
袋入りのパセリをカゴに入れたが、毎日食べるんだったら苗を買って育てるのがいいかもとなり、帰りに花屋に行ってみようと話した。
並んだレジを担当していたのが、佐藤さんだった。野間さんがチューリップバッグを贈った人。新宿三丁目のカフェに野間さんと来た人。だから、麻希とモリゾウが野間さんの家に住むことになったいきさつを知っている。
「お困りのことがありましたら、何でも聞いてくださいね」と親切に言ってくれたのも、個人的に気にかけてのことだったかもしれない。
何か聞かないと申し訳ない気がして、「この近くに花屋って、ありますか?」と尋ねた。検索でも調べられるのだが、他に質問を思いつかなかったのだ。
佐藤さんは親身になってくれた。予想以上に、必要以上に。駅前にある花屋は品揃えが良くないと残念そうに答え、麻希とモリゾウがパセリを育てようとしていることがわかると、パセリの苗を扱っているところはないかと考えてくれた。
気を遣って質問したのに佐藤さんを悩ませてしまい、もっと単純なことを聞けば良かったと後悔した。定休日はいつですか、とか。
そのとき、ハツラツとした声とともにあの人が現れた。
「うちの農園のパセリ、お買い上げありがとうございます」
緑のエプロンを着けたその人は、エコバッグから顔を出しているパセリに気づいたのだった。ハーブ農園の営業さんで、マルフルを担当しているのだろうか。初対面の客への声のかけ方としては満点だ。お礼を言われて怒る人はいない。
佐藤さんが「ハーブのマイさん」と紹介し、マルフルでハーブの苗を扱えないかとその人に持ちかけた。もちろん麻希の質問を受けてのことだった。パセリがハーブなのだと麻希は初めて知った。スペースの関係で難しいのではという話になり、だったら不定期のイベントで苗を販売しましょうと佐藤さんが言った。そこまでしていただかなくてもと口を挟むタイミングを麻希が逃している間にマルシェ企画が持ち上がった。
ハーブを使った食品を作っている知り合いはいないかと佐藤さんが聞き、マイさんは「いくらでもいます!」と答えた。
蒔いたつもりのない種がいきなり芽吹いて、あれよあれよという間に生い茂っていく。まるで『ジャックと豆の木』だと呆気に取られていたのに、「ハーブの刺繍もありですか?」と遠慮がちに口を挟んでしまった。なぜあんなことを言ったのだろう。
「デザイナーさんなんですか? じゃあ絵、描けます?」
マイさんに聞かれて、「ええ、まあ」と曖昧に返事をすると、「デザイナーさん見つかった!」と佐藤さんとマイさんは喜び合った。「描けます」と「描きます」ってイコールじゃないのではと思ったが、描けるのに描かないと主張するのも感じが悪い。
断るより引き受けるほうがラクなのだ。ただし、断れば良かったと後から悔やむことになる。ケイティでさんざん痛い目に遭って懲りたはずなのに、成長していない自分に呆れる。
「本部にプレゼンします! プレゼンってどうやるんですか?」と佐藤さんが聞き、「まずロゴを作りましょう。イメージ図もあったほうがいいです」とマイさんが答え、ロゴとイメージ図は当然のように麻希が作ることになった。
服飾デザイナーとグラフィックデザイナーとイラストレーターの区別はなく、「絵が描ける人に全部お願いする」ということのようだった。勢いにのまれて引き受けてしまったが、その場のノリに金銭は発生しない。ボランティアのデザインスタッフとしてカウントされてしまっていた。
ロゴもイメージ図も「期待以上です!」と喜んでもらえた。無料でこのクオリティは期待以上でしょうとも、とドロッとした感情が湧き上がったのを飲み込んだ。バッグやドレスのデザインを描くのとは勝手が違って手間取り、割り増し料金を欲しいくらいだったが、納品のときにもやはりお金の話は出なかった。無料でここまでやっていただいてという労いの言葉もなかった。善意だけで回る理想郷にお金の話を持ち出すのは野暮なのだろうか。
イメージ図を気に入った佐藤さんが「トートバッグにしたい」と言い出し、お金だけの問題じゃないと気づいた。自分の絵が使い放題だと思われていることに傷ついた。
悪気がないのはわかっている。無頓着なだけ。話せばわかってもらえるだろうけれど、それができるなら、最初に話してる。
こんなことがまだまだ続くのだろうと思うと、気が重い。だから、庭のミニトマトを見ると、花屋のことなんて聞かなきゃ良かったと思ってしまう。マルシェの話が持ち上がった帰り道、いつもと違う道を通って見つけた八百屋の店先でパセリの苗を売っていた。その隣にあったミニトマトの苗と一緒に買い求めた。
グラスの水を体に通すと、麻希は庭に面したサッシ戸まで進み、腰を下ろす。開け放った戸の向こうに足を投げ出すと、出しっぱなしのアウトドアサンダルの上に着地させる。水やりをしているモリゾウとの距離が数メートルに縮まる。これくらい近づかないと声が届かない。
「マルシェ、どうしよう」
「どうしようって? マキマキ、すっかりメンバーに入ってるよね?」
「そうなんだけど。なんか急展開だなって」
急展開。この家に引っ越すことになったときも同じ感想を持った。
この家に引っ越さなければ、マルフルで佐藤さんに会うこともなかったし、マルシェに巻き込まれることもなかった。「マキマキって、巻き込まれ上手だよね?」
ホースの水を葉っぱが跳ね返す音もモリゾウの声も吹っ切れていて清々しい。夏の朝らしい爽やかさだ。
「断るのが下手なだけ」
「そう? ちゃんとチャンスにつなげてない?」
「全然。わたし、こいつだから」
麻希が指差した先、まだ色づききっていないミニトマトの実がひとつ、枝から落ちている。マルシェの勢いに振り回されて振り落とされた中途半端なヤツ。
「マキマキは、その下じゃないの?」とモリゾウが言う。
「その下って?」
「地面」
「地面?」
「そうだよ。マキマキが巻き込まれてるんじゃなくて、マキマキが巻き込んでる。『マキマキ、マルシェに巻き込むの巻』って早口言葉みたいじゃない?」
モリゾウは麻希が見ているのと全然違う角度から物事をとらえる。これもどこかの論文に書いていたのか、本をたくさん読んでいるからそういうことを言うのか。
モリゾウと出会った日にチラシを渡された舞台のタイトルが『寝ぼけ眼のねじを巻け』だったことを思い出す。
自分が好きで巻き込んでるって思えば、見え方が変わるのだろうか。
わかったような、わからないような。
だけど、寝ぼけ眼がちょっぴりシャンとして、目に映るミニトマトがさっきより明るく見える。
いい色になってる。朝ごはんに食べてみようか。
次回7月20日に多賀麻希(54)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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