第93回 伊澤直美(31)ひなたと日陰の間で
「これ、うちのレモンなんですけど」
「もしかして、直美ちゃん?」
相手に警戒心を抱かせないやわらかな表情が、さらに緩んだ。
「もしかして、レイコさんですか?」
なぜその名前が咄嗟に出たのかわからない。直美が一人暮らしを始めたのと時を同じくして家を出た父は、その人のところへ行った。会ったこともなければ、写真を見たこともない。なのに、なぜ、目の前の人がその人だと思ったのだろう。
「レイコさん?」と女性は一瞬首を傾げてから、
「え? 私、レイコさんって呼ばれてるの?」と笑い出した。奥歯の銀歯が見えるほど口を開けて。気まずさを誤魔化す笑いではなかった。いつから父と深い仲になっていたのかわからないが、あまりに屈託がない。後ろ暗さはまるで感じられない、健康的なひなたの匂いがする笑いだった。確かに、父を助けてくれた人ではある。レイコさんと一緒になって、父はようやくほっとしたはずだ。
「直美ちゃん、鍵持ってないの?」
イザオと同じことをレイコさんも聞いた。
「はい」
「上がって待ってて」
レイコさんはそう言うと、買い物袋の内ポケットから鍵を取り出した。キーチェーンに見覚えがある。飼っていた犬によく似た茶色い毛の犬がついている。
思い出した。最後にこの家に帰って来た日。結婚パーティーに姿を見せなかった母を責め、祝う気がなかったからと言われ、だったら最初から行かないって言ってよと頭に来た。靴を脱いで家に上がる間もなく、玄関から出て行こうとすると、鍵持って行ってと母に握らされた。いらないと靴箱の上に置いた。
そうだった。わたしはあの日、もう一度、この家の鍵を置いたのだ。もうここに来る用はないと念を押すように。
直美が置いて行った鍵でレイコさんは玄関を開けると、家の中に消えた。キッチンのある奥へ廊下を進む足音が聞こえる。記憶に張りついている間取りの家の中をレイコさんが勝手知ったる様子で歩いているのが目に浮かぶ。ついて行っていいものか直美は迷う。それ以前に理解が追いつかない。
「レイコさんて、ここに住んでるの?」
「さあ」
「お母さんと、どういう関係?」
「さあ」
戸惑いをイザオと共有しながら、直美は頭を整理する。父と暮らしているはずのレイコさんが今、この家で母と暮らしているとしたら、父はどうなったのだろう。
レイコさんに何から聞けばいいのか、考えがまとまらないまま家に上がると、
「直美ちゃん、手洗って来て」と言われ、手を洗うと、「これお願い」とレモンと擦り下ろし器を託された。
家の前からずっと、レイコさんのペースに巻き込まれている。イザオと優亜の紹介もまだしていない。だけど、気まずいかというと、むしろ、ほっとしている。母が一人で待っているところに通されるより、初めて会うレイコさんといるほうが、気がラクだった。
イザオはまだ目を覚まさない優亜を抱っこしたまま家の中を見回している。イザオがこの家に足を踏み入れるのは初めてだ。母が渋ったから。今、母が帰ってきたら、勝手に家に上げるなとレイコさんに怒るかもしれない。
「こうして手を動かしてると、余計なことしゃべらなくて済むから、いいわね」
卵を黄身と白身に分けながら、レイコさんが言う。声も話し方も落ち着いていて、まろやかだ。
「黙ってても、シーンってならないし、間が持つじゃない?」
「はい」と直美は短く答え、相手に気を遣わせないために、まず自分が気を抜くレイコさんをいい人だなと思う。相手を緊張させるのが得意な母とは対照的だ。そんなところに父は惹かれたのだろう。
キッチンのシンク横の引き出しからレイコさんが泡立て器を取り出し、白身を泡立て始める。ここでお菓子を作るのは初めてではなさそうだ。
皮を擦り下ろしていくと、皮の下のほわほわした白いところが出てきた。
「こんな感じでいいですか?」
「ありがと。じゃあ次、黄身とお砂糖混ぜてもらっていい?」
レイコさんは砂糖の置き場所もわかっている。
「レモンのいい香り。市販のレモン果汁と全然違う。生は贅沢よね」
レイコさんが誇らしそうに言う。まるであのレモンの木を育てたのはレイコさんのように聞こえる。ここで生まれ育った自分より、レイコさんのほうがこの家になじんでいる。
ふと、レイコさんに家を乗っ取られたのではないかと胸騒ぎがする。あの母が誰かに心を許して、合鍵を渡したりするだろうか。しかも、父と関係のある女の人に。
「お母さんと最近話した?」
直美の心を見透かしたようにレイコさんが言う。
「いえ……」
最近どころか、孫ができたことを母はまだ知らない。
「じゃあ私がこの家に来てることも聞いてないわよね?」
「あの……母は今もこちらに?」
「もちろん。どうして?」
「いえ……」
家族にさえ逃げ出された母が、誰かと暮らせるだろうか。他人だからうまく行くのだろうか。レイコさんなら相手に合わせてくれそうだが、一体どうなったら母とレイコさんが一緒に暮らす展開になるのだろう。
「母の代わりにこちらに住まれているのかなと思って」
「住んではいないの。行ったり来たりしてるだけ」
「行ったり来たり?」
父と暮らしている家と、だろうか。どんな経緯があって、合鍵を託される仲になったのだろう。
「そっか。直美ちゃん、最近話してないんだったら、お母さんが今どうなってるか、知らないよね?」
「母に何かあったんですか?」
「頭を打っちゃって」
「頭、ですか」
「そこの廊下の壁でコツンって」
ボウルを押さえていた左手を一瞬ボウルから離し、レイコさんが廊下の壁を指差した。
「コツン?」
悪い予感と軽い音の落差に眩暈がする。
「それ自体は大したことなかったらしいんだけど、そのときにふらってよろけて、気が遠くなって、気がついたら、記憶が飛び飛びになってたらしいの」
「記憶が飛び飛び?」
話も飛んでいる。壁にコツンとぶつかって、どうして記憶が飛ぶのだろう。
「記憶がまるっとなくなっちゃったわけじゃないの。ひなたの部分と日陰の部分ができた感じ。日常生活にはそんなに影響ないんだけど」
深刻なのか、そうじゃないのか、よくわからない。卵の黄身と砂糖を混ぜているゴムベラに力を込める。かき混ぜるものがあって良かった。頭の中がぐるぐるしているのを手元のぐるぐるで誤魔化せる。
「お医者さんでCTだっけ、脳の輪切りの画像撮って検査してもらったんだけど、とくにどこか損傷してるとこはなかったんだって」
卵白の角の立ち具合を見ながらレイコさんが言う。
「それでね、日陰になった部分なんだけど、忘れたいところが消えてる感じなの」
「そんな都合のいいこと、できるんですか」
「ね。できたらいいわよね」
記憶を編集する。そんなことができるのだとしたら、自分にも消したい過去はある。母とぎくしゃくするようになった出来事を消して、母を好きでいられた記憶だけ残せたら、どんなにいいだろう。
「それでね、私はお母さんと会ったことあったんだけど、お母さんの記憶からは消えちゃってたの。でも、お母さん、私が作るレモンケーキのことは覚えてて。やっぱり味覚の記憶ってたくましいのよね」
思い出した。高校生の頃、父が何度かレモンケーキをお土産に持って帰ってきた。どこかのお店のケーキだと思っていたが、あれはレイコさんの手作りだったのだ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第94回 伊澤直美(32)「わたしの知らない母と父がいた家で」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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