第131回 多賀麻希(43)棺に入る分だけ残しなさい
引っ越そうかと言い出したのはモリゾウだった。
麻希はモリゾウの脚が作る輪の中に腰を下ろし、モリゾウに背中を預け、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。モリゾウの声が頭の上から降ってきて、エンダツの跡地辺りに着地した。
結婚しようと言われ、熊本の両親と妹と甥っ子姪っ子にモリゾウを紹介し、東京に帰って来て、以前と地続きの毎日に戻っていた。
熊本空港まで車で送ってくれた妹の奈緒に「そういうの、やるの?」と聞かれた。「そういうの」は、結婚のお披露目を指していた。「やらないよね?」と確かめるニュアンスだった。
モリゾウは大学に入る前から親と暮らしていないし、連絡を取り合っている親族もいない様子だ。熊本での父の快気祝いの会食を結婚披露宴ということにしても良いかもしれない。
友人向けの結婚パーティーも考えていない。共通の知り合いと言えば、新宿三丁目のカフェのマスターとモリゾウの演劇仲間の自称「古墳王子」ぐらいだ。王子の役者名は高低差太郎で本名は知らない。マスターの本名も知らない。ふたりきりの閉じた世界で充足していたというべきか、広がりたくないふたりが出会ったというべきか。
写真だけでも撮っておこうか。いや、今さら白無垢でもウェディングドレスでもないだろう。
婚姻届はその気になればいつでも出せるが、紙切れ一枚のことだし、出したところで実感が湧かない気がする。
婚約指輪はどうだろう。
指輪を待っていた頃もあったけれど、今は特に欲しくない。指輪がくれるときめきは、約束の重さに比例する。40歳を過ぎて、結婚しようと言われた後にもらう指輪は、客席から拍手が起きた後にまだ続きがあった舞台のようなつけ足し感がある。
そんなところに「引っ越そうか」のカードが切られた。
それがいい。パーティーより婚姻届より指輪より、結婚という変化をいちばん実感できる。
生活を変えたいなら引っ越しが一番有効な方法であることを麻希は知っている。この部屋に越してきたときがそうだった。あのときは過去を断ち切るための引っ越しだった。今度はふたりで踏み出すための引っ越しだ。住む街を選んで、部屋を選んで、カーテンを選んで、ふたりの新しい生活をひとつひとつ選ぶのだ。
いいねと麻希が乗ると、「オーダーメイドにするんだったら世界観が大事かなと思って」とモリゾウが言った。
「オーダーメイドって? 注文建築ってこと?」
話が噛み合わないと思ったら、モリゾウが言っている引っ越しはオンラインショップのことだった。今のショップはECサイトを間借りしているが、ケイティにひまわりバッグのデザインを盗用されて以来、商品を更新していない。これまでのように値段のついた作品を並べて決済する形ではなく、オーダーメイドで受注してから値段を決める形なら、ECサイトのプラットフォームは必要ないし、新しいショップサイトを立ち上げてはどうかという提案だった。
「確かに、SOLDがついたままだし、引っ越したほうがいいかも」と麻希が納得すると、
「サイトは引っ越すけど、作品は移さないよ」とモリゾウが言った。
「どういうこと?」
「今までの作品は見せる必要がないっていうか、むしろ邪魔だと思う」
「邪魔って?」
「例えばさ、店に入って、メニュー見て頼んだものが、今やってないんですって言われたら、ガッカリしない? だったら載せないでよと思うよね?」
モリゾウが言っていることはわかる。でも、これまで手がけたものを見せないと、作風が伝わらないではないか。それに……。
「ひまわりバッグも消すってこと?」と麻希が聞くと、
「残す必要ある?」と聞き返された。
「あれをショーケースから外したら、逃げたみたいにならない?」
「じゃあ聞くけど、ひまわりバッグは、マキマキの代表作に入る?」
その質問に答えられなかった。答えられないのが答えだった。
「個人的に思い入れのある作品と代表作は違うと思う」とモリゾウが言った。
モリゾウがつけてくれた6万円という強気な値段。
それに買い手がついたこと。
デザインをケイティに盗まれたこと。
たしかに、ひまわりバッグを特別にしているのは、麻希の個人的な事情だ。
「でも、盗みたくなるほどいいデザインだったんだって言ってくれたよね?」
「うん。盗みやすいデザインだったとも思ってる」
「モデルはひまわり」だとケイティに開き直られたのを思い出し、乾ききっていないかさぶたを撫でられる。吹っ切れたつもりだったけど、まだ引きずっている。
区切りをつけるための引っ越しなのだと麻希はモリゾウの意図を理解すると同時に自覚する。この期に及んでひまわりバッグが返り咲くことを期待しているわたしは、あの頃から成長していない。
映画製作プロダクションで働いていた20代の頃、撮影現場で出会ったエキストラの中にネットワークビジネスをやっている女の子がいた。公演のチケットのノルマをかぶり、一回何万円というワークショップに注ぎ込んでいた。役者では食べていけないどころか、夢を食べるのにはお金がかかるのだと彼女に教えられた。
使いもしない美顔器や空気清浄機を勧められるまま買った。モノではなく夢を買うのだ。美顔器や空気清浄機の形をしたおひねりだ。いつか彼女が大きな舞台に立てたら、あのときの美顔器が、空気清浄機が、苦しい時代を支えたのだと一緒に泣くのだと思っていたが、その日は来ないまま、彼女はいつの間にか劇団を去り、東京を去り、美顔器や空気清浄機は回収の見込みのない不良債権となった。
断りきれなくて、いい顔がしたくて、なんでも引き受けて、溜め込んで、身動き取れなくなってしまう。同じことが胆のうでも起きていたのだろう。色とりどりの胆石は今も麻希の中に居座っている。
どんどん引き受けているのに、どんどん空っぽになっていく気がしていた。どうしたらこの空虚を埋められるのか、わからなかった。占い師を訪ねると、「一人暮らしなのに、玄関に靴が何足も出ていますね」といきなり言い当てられた。
物を捨てられない人は、断ち切るのが苦手なのです。過去への執着と将来への不安が、物を手元に置いておこうとさせるのです。執着を手放しなさい。不安を手放しなさい。そうすれば、あなたに必要なものが入ってくるから。
そう告げられ、どれだけ捨てたらいいんですかと今より10歳余り若かった麻希は聞いた。すると占い師は言ったのだ。
棺に入る分だけ残しなさい。
そのときは行動に移せなかったが、それから何年かして衝動的に引っ越しを決めたとき、かつて占い師に言われた言葉を思い出した。棺フィルターにかけると、残す必要のあるものはほとんどなかった。
端折ったりぼかしたりしつつ過去を開示すると、
「棺に入る分だけ残しなさい」とモリゾウが復唱した。
「物理的な量じゃなくて、喩えだけどね。冷蔵庫とか布団は捨てなかったし」
「いい台詞だ。頭じゃ書けない」
「舞台で使う?」
「そうだね。いつか」
誰にも話すつもりのなかった過去がモリゾウの未来になる。恥をさらけ出すと思うと億劫になるが、ネタを提供していると思えば気持ちが軽くなるし、どこか他人事のような距離感が生まれる。切羽詰まっていたあの頃を取り出して風を通す。黒歴史の虫干し。
「どこかにメモしてるの?」と麻希が聞くと、モリゾウは長い人差し指で、ここと言うように自分の頭を差した。天然のウェーブがかかった髪を後ろに縛っている。
モリゾウは東大に入れる頭の良さの持ち主だったが、東大を出られる要領の良さは待ち合わせていなかった。過去問のコピーを入手できるルートがあれば、講義に出ていなくても単位を取れたのではないだろうか。課題を代わりに提出してくれる同級生をつかまえ、服飾専門学校を優秀な成績で卒業したケイティのように。
「で、入ってきた?」
「え?」
「捨てたら欲しいものが入って来るって言われたんだよね?」
「わかってるくせに」
時差はあったが、占い師が言ったことは本当になった。どちらからともなく顔を近づけ、重ねた唇が熱かった。久しぶりに体を交える予感があった。そこにピロンと間の抜けた着信音が鳴り、麻希のスマホがメッセージを受信した。
「悠人のひまわり、見て」と奈緒から絵が届いた。
一番上の子、小学4年生の悠人が描いたらしい。線も色使いも大胆で力がある。
「ひまわりバッグ?」とモリゾウがのぞきこみ、「よく描けてる」と感心する。キスの熱は遠のいてしまっている。
「ひまわりバッグの話、悠人にしたんだ?」
「してないけど。マキマキがしたんじゃないの?」
「してないよ」
奈緒にも話していない。だとしたら、何を見て描いたのだろう。考えられるのは……。
ケイティのひまわりバッグ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第132回 多賀麻希(44)「オリジナルって言い切れる?」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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