第147回 伊澤直美(49)大人が試されている
「いらない!」と耳元で声がして目を覚ますと、直美とイザオの間、「川」の字の真ん中の短い棒の位置で眠っている優亜の寝言だった。
あの日のことを夢に見ているのだろうか。
ふた月前の出来事を思い出し、直美は胸が痛む。
クリスマスツリーが家に来たその日、直美がミニトマトで作ったサンタクロースを見て、優亜は「ここ!」と歓声を上げた。インスタで見つけたレシピの写真ほど見映え良くは作れなかったが、1歳11か月の子どもが見てもサンタクロースだとわかるなら上出来だった。
組み立てたばかりのツリーにイルミネーションが灯り、温かな色合いの光が明滅を繰り返していた。
「優亜、ママのほう見て」
家族3人でテーブルを囲み、トマトのサンタ越しの優亜の姿を収めようとスマホを向けたが、優亜は顔を上げない。サンタの頭から飛び出したピックの星をつかんで皿の上で人形劇をするように動かしていた。
「優亜、おもちゃにしちゃダメだよ……ダメって言ってるでしょ……優亜やめて!」
最初は優しく言っていたが、だんだん言い方がきつくなった。サンタクロースの帽子と服に見立てたミニトマトで挟んだうずら卵を飾りつけたマッシュポテトの前髪と髭がくっついてしまいそうだった。
「いらない」
優亜が急に興味を失ったようにそう言うと、ピックからパッと手を離した。皿の上にサンタが放り投げられ、横向きに転がった。
少し前まで「ら」をうまく発音できなくて「いなない」と言っていたのが、いつの間にか「いらない」と言えるようになっていた。
「いなない」が始まったのは、秋の終わり頃だった。犬のイラストのおむつを出すと、「わんわん いなない」と突き返し、だったらと猫のイラストのおむつを出すと、「にゃーん いなない」とごねた。
保育園への送り迎えは、朝はイザオ、夕方は直美と決めていて、お互いのスケジュールに合わせて朝夕交代したり、日によってはどちらかが送りも迎えもやったりしていたが、「パパいなない」「ママいなない」に振り回された。
「めんどくさいカノジョみたい」と直美がぼやくと、
「大人を試しているんだよ」とイザオは言った。
「何を試されてるの?」
「代案力?」とイザオは笑った。
クセの強い得意先から延々と繰り出されるダメ出しに代案を出し続ける。仕事だと思えばいいのか。それが大人だ。成長の通過点で、いつまでも続くわけではない「いなない」を面白がろうではないかと夫婦で話していると、なんとなく心の余裕ができた。
ところが、トマトのサンタを前に「いなない」が放たれたとき、直美はオトナを見失っていた。「ここ!」とクリスマスを知らせるようになったのと入れ替わるように発動回数が減っていた「いなない」をここで出してくるのか。「いらない」と発音は成長したのに態度は成長していないのか。やれやれ。
「優亜、いいからこっち見て!」
とにかく写真だけは撮ってしまおうと、スマホを構えたまま直美がもう一度言うと、
「いらない!」
優亜が皿の上で寝転がっているサンタを手で払いのけた。
スマホのモニターから飛び出したサンタがペチャッと音を立てて床を打った。サンタの赤い帽子と顔と赤い服がバラバラになったのを見た瞬間、直美の中のオトナの砦が崩れ落ちた。
「何やってんの!」
優亜が「うわあああん」と泣き出し、「びっくりしたよな」とイザオが優亜を抱き上げ、「何やってんだよ?」と直美を見た。
「今、優亜、わざとやったよ?」
「わざとでもなんでも、トマトにそんな大声出すなよ」
「トマトじゃない! サンタ!」
優亜の泣き声に負けじと直美も声を張り上げると、
「なんだっていいよ」
突き放すようにイザオが言った。
「なんだってって……」
言い返す言葉よりも先に涙があふれ、涙の溜まった目の端でツリーのイルミネーションが滲んだ。さっきまでと同じリズムで繰り返される明滅の能天気さに苛立った。優亜も、イザオも、この部屋の何もかも、わたしをわかってくれていない。
「もういい!」
涙が落ちる前に書斎に駆け込んだ。閉めたドアの向こうから優亜の泣きじゃくる声と、優亜をなだめるイザオの情けない声が聞こえていた。
「何やってんだろ」
優亜を叱りつけ、イザオから突きつけられた言葉を自分に向けた。
なんで笑ってるはずの日に泣いてるんだろ。親子で。
「お母さんみたい」
そう思うと、涙が太くなった。
頼まれてもいないのに中学受験にのめり込み、そのせいで父と仲違いし、期待に応えられなかった直美に「お父さんを勝たせたね」と言い放った母。地元の公立中学校の卒業式で「お母さんの人生、返して」と言い、楽しかった3年間に呪いを塗りつけた母。
だから、「あなたの人生はあなたのもの」という想いを込めて、英語の「your」の響きを持った「優亜」という名前をつけた。
なのに。
「何やってんの!」と叫んだとき、なりたくない母になっていた。自分の思いを勝手に押しつけ、思い通りにならない娘を罵っていた。
優亜が笑ってくれると思ったから、クリスマスツリーを迎えた。ミニトマトのサンタクロースを作った。実際、優亜は喜んだ。その喜び方が、思っていた形とちょっと違っただけだ。子どもが食べもので遊ぶのはよくあることで、それでサンタが崩れたって目くじら立てることではない。だいたい、トマトのサンタをおもちゃにするのと、写真を撮る小道具にするのと、どっちもどっちではないか。どうせ食べてしまえば形はなくなってしまうのだし、また作ることだってできた。ミニトマトも作り過ぎたマッシュポテトも、まだ冷蔵庫にあったのに。
バラバラになったトマトのサンタより取り返しのつかないことをしてしまった。後悔と自己嫌悪がこみ上げた。
書斎から出ると、イザオと優亜はリビングのクリスマスツリーの根元で眠っていた。その上でイルミネーションが瞬いていた。何事もなかったかのように。
床に落ちたトマトのサンタはいなくなっていた。皿の上に立っていたもうひとつのサンタも、皿ごと消えていた。カップに分けていたミネストローネスープは鍋に戻され、冷蔵庫に収められていた。優亜をなだめ、寝かしつけた後でイザオがやってくれたのだろう。
あくる朝、ゆうべのことをなんと言っていいのか直美が言葉を探していると、「ママ、おはよう」と優亜が屈託なく言い、直美の口からも「おはよう」がスルッと出た。「いい天気だ」とイザオが言い、いつものように朝が始まり、続いている。
あの日以来、優亜の「いらない」を聞かなくなった。ママに悪いことをしてしまったと反省して、封じたのだろうか。大人げなかったのは、わたしのほうなのに。
コルク栓を抜くとシュポッと音を立てるスパークリングワインのように、ふたをしていた感情がふつふつと立ち上り、目がどんどん冴えてくる。
本当は言いたい「いらない」を我慢してるの? それで、夢の中で口にしたの?
優亜の寝顔をのぞき込み、心の中で問いかける。1月の終わりに2歳になったばかりのシミもくすみもニキビもない肌は純真無垢な心を表しているようでもある。「いらない」と無邪気に大人を試す子どもらしさを奪ってしまったとしたら申し訳ない。
「いらない!」と言ったきり優亜の寝言は止み、代わりに規則正しい寝息を立てている。
さっき耳元で聞こえた「いらない!」は空耳だったのだろうか。
「いらない!」を聞いたのは自分の夢の中だったのではないかという気がしてくる。その理由に心当たりがあった。朝、保育園へ優亜を送り届けたとき、「きょうは ママ くる?」と聞かれたのだ。
ここ数日、仕事が立て込んでいて、送りも迎えもイザオに任せていた。「きょうは ママ くる?」は、今日の送りはママだったけど迎えもママなのかと聞いていた。
今日は。今日こそは。ママが迎えに来てくれる?
「いらない」と言って出方を試されるより、真っ直ぐに求められるほうが切なくて揺さぶられた。
次回2月25日に伊澤直美(50)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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