第9回 伊澤直美(3) 子育てより仕事のほうがラク!?
「ショウくん、それどこから持って来たの?勝手に持って来ちゃダメじゃない!」
「リサちゃん、アイス買わないって言ったでしょ。うちにまだあるんだから」
「走らない!走っちゃダメ!ちょっとパパ、ダイスケつかまえて!」
たしかに子育ては体力勝負だと、休日のスーパーの親子連れを見て、直美は納得する。
子どもは商品を触りたがり、欲しがり、要求が通らないとぐずり出し、退屈すると走り出す。その都度、親は対応を迫られる。なだめたり、たしなめたり、叱ったり、追いかけたり。
仕事しているほうがよっぽどラクだ。
自宅のマンションから自転車を10分ほど走らせた大型スーパーに、夫のイザオ(伊澤孝雄)をつき合わせて、市場調査に来ている。自社製品がどんな風に売られ、買われて行くかを、買い物客のふりをして観察する。
直美と同期入社のイザオが勤めている食品会社は、レトルトの惣菜が主力商品だが、袋から出してそのまま使える豆や雑穀にも力を入れている。大豆、ひよこ豆、レンズ豆、大麦、最近はキヌアやチアシードが人気だ。常温で保存できるが、サラダチキンやベビーリーフと並べる店が増えている。
サラダコーナーでは、パック詰めのハーブがじわじわと幅をきかせている。バジル、ミント、オレガノ、セージ。価格帯は強気だけど、売れているらしい。
「またハーブ増えてる」
「あいつら繁殖力あるからなー」
「ここで増えるわけじゃないから」
イザオと他愛のないやりとりをしながら、売り場をじっくりと見渡す。自社製品が競合他社の製品より目立つ位置に置かれているか、店側が力を入れてくれているか、同じ棚の売れ筋商品は何か。買い物客の目線でチェックし、商品改良や新商品開発のヒントにする。
もちろん自社製品を買い物カゴに入れる。まわりに他の客がいるタイミングを見計らって。
「あ、食感モチモチ大麦。これ、こないだ食べて、おいしかったよね」
「うん。低カロリーだし、食物繊維取れるし」
わざとらしく自社製品をほめちぎって手に取ると、釣られたように他の客の手が伸びる。それを見て、後から来た客が足を止める。休日の社員の小さな努力が、棚の確保につながる。
レジ待ちの列で直美たちの前にいたのは、赤ちゃんを抱っこした母親だった。幼稚園児くらいの男の子が一緒にカートを押していた。
親子連れを見ると、イザオの目は子どもを追いかけるが、直美は子どもよりも親に目が行く。自分と同じ年くらいの母親だと「自分にもあれくらいの子がいたって、おかしくないんだな」と想像する。
身ぎれいにしている母親を見ると、頑張っているなと感心するし安心もする。メイクもしないで髪を振り乱している母親を見ると、わたしより老けて見えるけど本当は年下かもしれないと思い、不安に駆られる。
直美たちの前にいた母親は、直美と同い年くらいに見えた。ショートカットからピアスをのぞかせ、財布を持つ手はきれいにネイルしている。子どもを産む前は、スーツに身を包んで飛び回っていたかもしれない。今はどうだろう。あんな小さな子がいて、フルタイムで仕事を続けられるだろうか。
それとなくカートの中身に目をやると、テレビアニメのキャラクターが描かれたお菓子や甘口のカレールーや菓子パンやペットボトル入りのサイダーが見えた。
「さっき、前の人のこと、すごく見てなかった?」
スーパーを出ると、イザオに突っ込まれた。
「子どもがいると、何もかも子ども中心になっちゃうんだなって」
スーパーで何を買うか、だけじゃない。休日に何をするか、どこに行くか。食べに行ける店も観に行ける映画も限られてしまう。
「だから?」
「だから、子どものいないうちに、やりたいことやっときたいなって思った」
「子どもが生まれたって、何もできなくなるわけじゃないんだし」
「イザオって、掃除も料理も段取り命なくせに、なんで子どものことなると段取り無視なわけ?」
「ハラミこそ、家事は行き当たりばったりなのに、子どものことには慎重だよね?」
旧姓の原口のハラと直美のミをつなげて「ハラミ」。新人研修とのときに同期入社組ルールでついたあだ名だが、イザオに「ハラミ」と呼ばれると、「孕(はら)み」を連想してしまい、落ち着かない。
会社の同期で父親第一号になったマツリ(松井政則)に、子育ては体力勝負だからスタートは早いほうがいいとけしかけられて以来、「子どもどうする?」が夫婦の前にぶら下がっている。
マツリめ、余計なことを。
「俺ら、大抵のことはやり尽くしたよね?旅行もかなり行ったし、家も買ったし。あとは子育てくらいじゃない?」
「そういうノリがイヤなんだけど」
「どういうノリ?」
「犬飼おうよ、みたいなノリ」
そんな言い方していないとイザオはむくれた。でも、似ているのだ。犬を飼いたいと両親にねだった幼い日の直美に。
引き取り手を探している子犬を飼いたいと言う直美に、両親は理由を尋ねた。「可愛いから」と直美が答えると、「可愛くなくなったら、どうするの?」と聞いた。犬は人間よりずっと早く歳を取る。今は子犬だけど、直美を追い越して、先に大人になり、年寄りになり、死んでしまう。それでも飼いたいなら飼いなさいと言われた。
直美が大学生になった頃、子犬だった犬は、おばあちゃん犬になっていた。おむつを当てて徘徊するようになってから2年生きた。ドッグフードの栄養が良くなって犬の寿命が伸び、以前は呆ける前に天寿を全うしていた犬が、呆けて長生きするようになったのだ。
「で、子どもを持つ前にハラミがやりたいことって何?」
「仕事とか」
「仕事だったら、子ども産んでも続けられるよね?」
「でも、商品開発にいられるかは、わかんないから」
直美が今いる部署は、子育てしながら働いている女性が一人もいない。子どもを保育園に迎えに行ける時間に会社を出ようとすると、時短で働ける部署に異動するしかない。
「ハラミが第一号になればいいんじゃないの?子育てしながら商品開発する女性社員の」
「なれたらいいけど、なれるとは限らないから、産む前にヒット商品作りたい」
イザオは夢を見るが、直美は現実を見る。
「午後、仕事したいんだけど」
「じゃあ俺、昼作ろっか」
「昼はわたし作るから、晩ご飯お願い」
話がついたところに、イザオの携帯電話に着信があった。
「うん。うん。いいよ」短く返事して、イザオは電話を切った。
「誰から?」
「アコネーから。コータ預かって欲しいって」
亜子姉はイザオの4つ上の姉で、春から小学生になる一人息子の幸太は、直美とイザオにとっては甥っ子だ。イザオの両親よりも直美夫婦になついていて、年に何度か預かる機会がある。
「いつから?」
「今日。今から。明日の昼、迎えに来るって」
「泊まり?わたし、うちで仕事するんだけど」
「いいよ。俺が見るから」
イザオはわかっていない。幸太がうちにいたら、仕事にならないってこと。
やっぱりわたしは子どもより仕事が好きなのかもしれない。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第10回 伊澤直美(4)「産まないって決めたわけじゃないのに」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
※表示価格は記事執筆時点の価格です。現在の価格については各サイトでご確認ください。