第156回 多賀麻希(52)アドレスのないドレス
また同じ夢を見た。
夢の中で麻希はモリゾウと引っ越し先を探している。物件を訪ね歩き、ようやく理想の部屋が見つかる。だが、引っ越しの日、荷物を運び込もうとすると、なぜかすでに住人がいて、生活を始めている。
話が違う。こんなはずじゃない。何かがおかしい。
麻希は食い下がる。相手の顔はよく見えない。自分の声が届いているのかどうかもわからない。
そこで目が覚める。
天井の照明が目に入る。花びらにも見えるし、鳥の羽にも見えるランプシェード。そうだ、引っ越したんだったと思い出す。
夢を見るということは、起きている間にそのことを考え足りていないということだ。「夢って、未練のカタマリなんだよ」とツカサ君が教えてくれたことを思い出す。ツカサ君のことも久しぶりに思い出す。ツカサ君と初めて交わった日のぎこちなさも思い出す。
夫となったモリゾウの腕の中で。まだ慣れない新居の寝室で。
新居?
いや、新居ではない。ここは野間さんの家で、わたしたちの家ではない。
夢に出てきた理想の物件は、住宅ローンの審査が通らなくて住むことが叶わなかったマンション一階の専用庭つきの角部屋だった。
あの部屋に未練があるのか。あっちのほうが良かったのか。ついこないだまでは住むところがなくて焦っていたくせに。人間の欲には底がない。というか、わたしが欲張りなのだと麻希は思う。
家賃が上がるのなら、その分、部屋もアップグレードしたいという気持ちで物件探しを始めたが、見れば見るほど目が肥え、欲が出た。この値段で、もっといい物件があるのではないか。同じような条件で、もっと安い物件があるのではないか。賃貸ではなく分譲の中古物件を探そうとモリゾウが言い出し、方針を変えた。月々の家賃は出て行く一方だが、ローンの支払いにあてれば、自分たちの家を持つことができると思ったのだが、片想いで終わってしまった。
現実を追体験するような夢だった。新居になるはずの部屋に住人がいて、あてが外れてしまうという夢は、今のこの状況とそれに対する麻希のくすぶりを翻訳しているのだろう。
隣でモリゾウが寝息を立てている。壁際に置かれたシングルベッドで体を寄せ合って寝ている。反対側の壁にもう一つ、シングルベッドが置かれている。仲違いした双子のように。一つだと狭いが、くっつけると広すぎる。
野間さんとダンナさんの寝室だった部屋。
この家で暮らし、この部屋で寝起きしていた夫婦は別々に寝ていたのだろうか。あるときからベッドを離したのだろうか。それとも、あるときからシングルベッドで身を寄せ合うようになったのだろうか。今のわたしたちみたいに。
夫婦の寝室だった部屋を使うのはちょっと……とためらいはあった。この部屋は避けるつもりだった。避けるべきだろうと思った。だが、ブレーキがアクセルになった。もつれ合ってシングルベッドに倒れ込み、服を脱がせ合い、夢中でことを終えるまで、体感5分だった。最後に貫かれたのはいつだったかと思い出せないほど、間が空いていた。モリゾウに腕枕され、火照りを冷ましながら、覚えたてのティーンエイジャーじゃあるまいしとむき出しの胸の中で自嘲したが、初めてのときはすでにティーンじゃなかったっけと後から思い出した。
モリゾウはどうなのだろう。麻希にしていることを他の誰かにしているモリゾウを想像できない。考えたくないというより、うまく思い描けない。靄がかかったような、ピントが合わないような。うんと年上の人だったり、肌の色が違う人だったり、自分とはまるで違う人なのではないかという気もする。願望かもしれない。やはり嫉妬しているのかもしれない。
そのままこの部屋を寝室にしている。盛り上がったのは最初の日だけで、非日常はすぐに日常になった。肌からは距離を置かれているが、眠るときは腕枕をせがんでいる。たいていは眠っている間に解けてしまうが、今朝はまだ麻希の頭の下にモリゾウの左腕がある。
薄手の掛け布団の季節は人肌が心地いいし、冬は温め合えるけれど、汗ばむ季節になったら、ベッド2つのほうがいいかもしれない。
この部屋で夏を迎えるのだろうか。このままではいけない。あまりにも間借り感がありすぎる。人の家に泊まりに来て、厚かましくも夫婦の寝室を使わせてもらっている感じ。では、何を変えればいいのだろう。ベッドや照明を買い換えたら、自分たちの寝室になるだろうか。
隣でモリゾウの頭がモゾモゾと動く。
「起きてる?」
寝起きのモリゾウはいっそう声が低くなる。
「起こしちゃった?」
「今何時?」
壁の時計に目をやる。文字盤がなく、12か所の数字の位置に少しずつ色の違う木の球が配置されている。自分でお金を出して買ってもいいなと思えるくらいデザインは良いのだが、球の位置が等間隔になっておらず、微妙にガタガタしている。その詰めの甘さが野間さんっぽくもある。
短針が3と4の間にあり、長針が真下を指している。
「3時半?」
さすがにそれはないかと目を凝らすと、秒針が止まっている。電池が切れているらしい。カーテンの外は薄明るい。空が白みかけている。
「6時前、くらいかな」
「そっか。起きてもいい時間だ」
腕枕をしている手で、モリゾウが麻希の髪をなでる。長い指で髪をかき分ける。そこにエンダツの小さな更地ができていることを麻希より先に見つけて教えてくれたのは、モリゾウだった。更地に再び毛が生えてきたことに気づいたのも。
野間さんの家の庭は、草がはびこっている。わたしはこの家に根を下ろせていなくて「野間さんの家」と呼んでしまうのに、何週間も水やりを忘れられていた草はたくましく根を張り、勢力を広げている。ところどころ土が見えているところがあり、エンダツみたいになっている。
「アトリエどうしよう」
こんな夢を見たという話はせず、そんなに深刻に考えている風でもなく、さらっと口にしたつもりだったが、自分の声が意外と湿っぽくなっていた。
野間さんの顔が思い浮かんでしまうほど持ち主の物と色とにおいで満たされたこの家に、わたしの、わたしたちの場所を作れるのだろうか。
トルソーは1階のLDKに置いているが、テーブルやソファや棚が幅をきかせていて、肩身が狭そうだ。家族の時間が染み込んだ飴色の大きすぎるテーブルは、浮かせると脚の部分の床の色が違うのだろう。壁にかかっている額縁も、どけると壁紙の日焼けした部分と日焼けしていない部分の境目が見えてしまうのだろう。壁紙を貼り替えるか、ペンキを塗るか。野間さんの家の色を一つ一つ消してから自分たちの色に上書きする必要がある。前の安アパートの部屋をアトリエにするほうが、引き算がない分、まだ現実的だったのではないか。
「マキマキはどんなアトリエにしたいの?」
「なんとなくのイメージだけど、外から見えるのがいいなと思ってて。でも、木が森みたいになっちゃってるじゃない?」
「俺が思ってたアトリエは作業場なんだけど、ショールームにしたいわけ?」
そう言われると、いつも誰かに見られているのは落ち着かないなと麻希は思い直す。
「この部屋をアトリエにするのはどう?」とモリゾウが言った。
玄関から階段を上がってすぐの部屋が、この寝室だ。2階は考えてなかったが、LDKより情報量が少なく、手を加える労力は小さくて済みそうだ。それに、1階のリビングは木が目隠しにいるが、2階だと外の通りから見えると麻希は気づく。
「移動してもいいと思う。劇団だと公演を打つたびに小屋が変わるし、稽古場だって決まったスタジオを持ってない劇団は転々とするし」
「そっか。アトリエって、決まった場所じゃなくてもいいんだ? さまよえるアトリエ? さすらいのアトリエ?」
モリゾウが「アドレスのないドレス」とつぶやき、「アドレスのないドレス?」と麻希は繰り返す。
「address」「dress」とモリゾウが長い指で英語のスペルを空書きする。
「アドレスの中にドレスがある。じゃなくて、ドレスの外にアドレスがある?」
「吾輩はドレスである。アドレスはまだない」
「ドレスを着る人がアドレスになるってこと?」
そんな話をしていたら、空が明るくなってきた。
アドレスのないドレスを作ってみよう。新しいこの家で。
次回6月1日に佐藤千佳子(53)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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