第173回 多賀麻希(57)愛にハサミを入れられない
紙袋から取り出した子ども服を作業台に広げていく。シャツ、ブラウス、ジャケット、フリルのついたワンピース、ワンピース、ワンピース。サイズは100センチから130センチ。サスペンダーのついたデニム素材のミニスカートは、中に黒い短パンがついている。
これなら鉄棒で逆上がりしても、大丈夫。
そんなことを思って、母親目線になっている自分に気づき、ふっと笑ってしまう。
スーパーマルフルでカズサさんと待ち合わせし、子ども服を詰めた紙袋を預かってきた。並べてみると、厚みも色もバラバラだ。それはいい。恋人だったツカサ君が麻希の部屋に置いて行ったシャツとジーンズだってチグハグだった。その古着をリメイクしたバッグの手触りをカズサさんは面白がり、着なくなった子ども服でバッグを作ろうと思いついたのだった。だから、統一感はなくていい。
ただ、エコバッグにする材料としては、どうだろう。
薄手の夏物が良いのではとあのとき話したはずだった。一般的なエコバッグに使われるレインコートのようにシャカシャカした撥水加工素材でなくても良いが、軽さと折り畳みやすさは重要だ。だが、預かった子ども服はフリルが何層にもなっていたり、デニム素材だったり、かさばるものが多い。小さく折り畳んで持ち歩く前提が忘れられているのではなかろうか。
それでもオーダーに応えるのがプロだと作業台の前で麻希は背筋を伸ばす。調理するのが難しい食材を前にした料理人の心持ちだ。手に負えない厄介な材料を相手にするときほど、腕の見せ所だ。華麗に不自由とダンスして、拍手をもらうのだ。
それぞれの服のどの部分を使おうかと吟味し、頭の中で組み立てる。最初に手に取ったのが、スカートの裾がピンクのレースで縁取られたワンピースだった。襟タグのサイズ表記は「120」。身長120センチというと、小学校の低学年くらいだろうか。
白地に黄緑色の格子模様。スカートの裾のレースの少し上に、さくらんぼの刺繍が入っている。糸の盛り上がりを手で辿ると、なんとなく形がわかる。その部分を切り抜くことにした。
子どもの頃からハサミだけは左手だ。左利き用のハサミも売られているが、右利き用を使っている。左利き用だと、かえってうまく切れない。多数派に合わせてしまう性格は、ハサミから始まっているのかもしれない。
右手でワンピースの裾を押さえ、左手に持ったハサミを入れようとしたとき、さくらんぼのそばに刺繍された「LOVE」が目に留まった。すでに見えていたのだが、そこに焦点が当たった。
切っていいのだろうか。
刺繍を切り刻むわけではない。なのに、神聖なものにハサミを入れるような、ためらいと後ろめたさを覚えた。
作業台にハサミを置き、ため息をついた。
これから作業に取りかかろうとするとき、向き合った対象とは別なところに思考が飛び、囚われ、手が止まってしまう。麻希には、よくあることだ。服飾専門学校にいた頃からそうだった。糸が進む時間より止まっている時間のほうが長かった。
これでいいのだろうかと迷うと、そこから先に進めない。ミシンで縫ってしまった糸はほどけないし、ハサミで切ってしまった布はつなげられない。間違えたと思っても、引き返せない。取り返しがつかない。そう思うと、慎重になる。臆病になる。そして、立ちすくむ。
ツカサ君が残して行ったシャツやジーンズにハサミを入れたときは、ためらわなかったのに。
あのときは、ジョキジョキとハサミを進められた。断ち切ることが目的だったから。目につくたび、手に取るたび、それを着ていた恋人の不在を突きつけられ、かといって捨てることもできず、いっそ姿を変えてバッグにして持ち歩いてやろうと思い立ち、ハサミを手にした。恋を失ったことより未来を思い描けなくなったことが痛手で、それをツカサ君一人のせいにしている自分も嫌いで、行き場のない未練や反省や不安や自己嫌悪をバッグに押し込めた。ボタンや刺繍で飾り立てて、これでもかと華やかにした。
思い残しのある故人を、せめて盛大に弔うように。
それくらいやれば気が済んで吹っ切れるのではないかという自虐まじりの荒療治だった。故郷の山形に戻ったツカサ君といつか会うことがあるなら、ボロボロに使い込んだこのバッグを見せてやろうという謎の目標を掲げ、完成したバッグを普段使いにした。
恋人が置いて行った古着は遠慮なくハサミを入れられたのに、人から預かった子ども服を切るのはためらってしまう。
何の思い出もない、思い入れもない、エコバッグの素材。だけど、手に触れると、記憶のふたが開いて、連想ゲームが始まってしまう。古着は、とくにそうだ。その服を着ていた人のことを想像してしまうし、受け止めてしまうし、自分につなげてしまう。
重みを受け止めるのとは違う。重く受け止めすぎるのだ。
ウェディングドレスを託されたときがそうだった。田沼深雪さんという依頼人の母親がかつて着たというドレスに刺繍糸を通したときも、麻希の思いは乱れ、針が止まった。
ウェディングドレスを着るチャンスがあったのにと過去を引きずり、ウェディングドレスを着ることはもうないのだろうと未来を諦めたあの日のように、沈澱していた思いが浮かび上がり、頭の中でかき回されている。
この部屋でカズサさんと布を選んだとき、「お子さんは?」と聞かれた。首を振ると、これからですかと聞かれた。年齢的に、ないと思うと答えると、「今からでも授かるかもしれませんよ」と言われた。
42歳。どうしてもと望むなら、まだ諦めなくていい年齢なのかもしれない。けれど、自分たちが親になることが想像できない。
もう少し早く出会っていたら、違っただろうか。
モリゾウと出会ったとき、39歳になっていた。
結婚はもちろん、恋をすることも諦め、39歳の誕生日を前に派遣切りに遭った。東京に居残ることだけは諦めきれなくて、再就職先を探していた。それも諦めかけたときに新宿三丁目のカフェのバイトという居場所を見つけた。マスターに紹介されたモリゾウは、麻希が持っていたバッグを見て、「古墳みたい」と興味を示した。
古墳ってお墓だよねと少しドキッとした。去って行った恋人の名残を見透かされたかと思った。けれどモリゾウは、古墳が好きだと無邪気に言った。
モリゾウは麻希の一人暮らしの部屋までついて来て、そのまま居候になり、恋人になり、夫になった。その延長線上に父親になることはあるのだろうか。
夫婦でそんな話をしたことはない。
次回11月23日に多賀麻希(58)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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