第152回 佐藤千佳子(52)ウィンウィンの天才
野間さんが一時帰国したのは、孫のしーちゃんの小学校の入学式に出るためだった。
都内に住む野間さんの次男夫婦の長女、栞ちゃん。ノマリー・アントワネットの庭に植えた野間さんのダンナさんの形見のゴールドクレストを「じいじの木」と呼び、枝にリボンを結ぶ遊びに夢中になっていた女の子は、今は習い事で忙しい。親も付き添いで忙しく、野間さんの家に行くのが負担になっている。次男と交代で野間さんの留守宅を守っていた長男は海外転勤が決まり、野間さんの一時帰国中に「横浜の家どうする?」を話し合うことになっているという。
「戻る場所は残しておきたいから、留守の間だけ住んでくれる人がいたらいいなって。そう簡単に見つからないと思ってたし、誰でもいいってわけじゃなくて」
野間さんがマキマキさんを見た。あなたならという目だ。
「でも、家賃は……」
「光熱費だけ出してくれたらいいの。どうせ空き家なんだから。都合のいい間借り人っていうか、住み込みの管理人と思ってもらえたら。家の中にあるもの好きに使ってくれていいし、模様替えも好きにしてくれていい。壁紙なんかも。その代わり私が一時帰国したときは自分の家として使いたい。その間、いてくれるのは構わない。私が引き上げるときはなるべく早く知らせるし、次に住むところが見つかるまで同居でもいい」
スーパーマルフルのパートを卒業すると野間さんに打ち明けられたのは1年前の今頃だったと千佳子は思い出す。旅行のつもりで出かけたアムステルダムで仕事を見つけ、恋人ができた野間さんが、あの家に戻って来ることはあるのだろうか。
「身勝手な希望を言わせてもらうと、息子や孫が遊びに来たときは庭を見せてあげて欲しい。もちろん佐藤さんも。郵便物や荷物の受け取りもお願いしたい。ご近所づきあいもして欲しい。そうだ、自治会の役員も回ってきちゃって。今住んでないからできませんってわけにもいかないし、定例会なんかは息子たちに代わりに出てもらおうと思ってたんだけど」
この調子だと、まだまだ後出しされそうだなと千佳子は思う。住んでからもポロポロと頼まれごとが発生する気もする。それでも、あの家を賃貸で借りれば、ひと月数十万円はするだろう。仕事だと思えば、悪くない。
マキマキさんの頭の中でも天秤が揺れているのか、しばらく考える顔つきになっていたが、口を開くと、野間さんに聞いた。
「お庭には今、何が咲いていますか?」
「お花?」と不意をつかれた野間さんに代わって、
「今はチューリップですよね」と千佳子が答えると、
「じゃあ決まりですね」とマキマキさんは言った。
「急いで決めなくても、現地を見てからで」と野間さんが慌てる。
「私、チューリップに助けられたので」
マキマキさんは野間さんの隣のスツールに置いたチューリップバッグに目をやった。
「初めて強気な値段をつけたんです。それまでは3千円とか5千円の小物を作っていて」
「『いい春来い』の語呂合わせよね?」
「お気づきでしたか」
イイハルコイを千佳子は数字に置き換える。1、1、8。ルは6だろうか。
11万8651円⁉︎
「出品したら、すぐにお買い上げいただいて。それだけの価値があるって言っていただけた気がしました」
「あるでしょ十分。ひと桁多くてもいいくらい」
千佳子より遥かに余裕があるとはいえ、バッグひとつに百万円は行き過ぎだろう。ということはイーハルコイで1万8651円だろうかと逆算する。
野間さんに贈られたバッグも同じ値段だったのだろうか。千佳子が想像していた値段はイーハルコイとイイハルコイの間の数字だった。
「そっか。いいタイミングだったんだ。たまたまこちらでショップカードをもらってすぐにページを開いて、真っ赤なチューリップに一目惚れしたの」
「マキマキ、これもテンペイや。はい、お待たせしました」
色とりどりの野菜を盛りつけた平皿をモリゾウさんが出し、カウンターが華やぐ。野間さんの空き家プレゼンの間にランチが出来上がった。
その日の材料で作るというおまかせのワンプレートは、農園直送という野菜たっぷりのサラダと台湾式サンドイッチだった。サンドイッチは厚焼き卵と厚切りベーコンを挟んでいて、ほんのり甘い。パンにバターとピーナッツバターを塗っているのだという。ピーナッツの粒が残っていて、食感も楽しい。
「チューリップの次にひまわりのバッグを作って、もっと値段を上げたんです」とマキマキさんが話を続ける。
「それもすぐにお迎えしてくださる方が現れて」
「すごい。幸福の赤いチューリップだ」
「そうなんです。でも、その後に自信をなくしてしまう出来事があって……」
マキマキさんは顔を曇らせ、「もしかしてご存知でしたか?」と野間さんを見た。
「なんかあったの?」
「いえ……落ち込んでいた頃に2つ目のチューリップバッグをご注文いただいて、『同じデザインではなく、もうひとつのオリジナルが欲しい』というオーダーだったので、もしかして励ましてくださっているのかなと」
「それもたまたま。タイミングが良かったってことね。2度とも」
たまたまが重なれば偶然は必然になる。そのことを教えてくれたのも野間さんだったと話を聞きながら千佳子は思う。
「今日が3度目です。チューリップのご縁だと思います」
マキマキさんはすっかり野間さんの家に住む気になっている。お見合い相手に会う前に結婚を決めるようなものだと千佳子は思い、自分だって東京に出ていけるなら誰でもいいと見合い話に飛びついたではないかと苦笑する。
マキマキさんとモリゾウさんにも切羽詰まった事情があるのだろう。今住んでいる部屋の退去期限が迫っているとか。
野間さんの「うちに住んでもらえる?」にデジャヴを覚えて記憶を辿ると、「美枝子ちゃんに、うちに住んでもらっていい?」だった。
夫婦喧嘩で家を飛び出し転がり込んできた夫の母を持て余していたら野間さんが引き受けてくれた。一昨年の冬だ。千佳子一家は野間さんに助けられたと思っていたが、当時不眠に悩まされていた野間さんも安眠を得られたのだった。
野間さんはウィンウィンの天才だ。こうしたいという目的地がはっきりしているから、何が必要なのかはっきりしていて、動きに無駄がない。「なんとなく、なんとかしたい」では行き先がぼやけてしまって辿り着けないのだと千佳子は野間さんと自分の差を分析する。
「私もお礼を言いたかったの。このバッグを見ると佐藤さんと働いていたときのことを思い出せて、離れていてもつなげてもらってる」
ウィンウィンの天才は傍観者の千佳子にまでトロフィーを持たせる。
「キワコは『パセリの君』の話ばっかりだねって彼にも呆れられてる」
野間さんは初めて会った相手にも遠慮なく恋人のことを話す。店に入るまでさんざん聞かされてお腹いっぱいだった惚気話が、たちまち愛おしく思える。同じことをアムステルダムの恋人相手にやっているのか野間さんは。
「このチューリップは私たちの埋蔵主婦卒業記念。だよね?」
野間さんが千佳子を見た。
「マイゾウシュフ?」
おまじないのようにマキマキさんが復唱する。
「主婦って、この国の巨大埋蔵資源なんです」
千佳子は気分が良くなって、「こちらはモリゾウシェフ」とおどけてみたが、あとの3人が「?」の顔になった。
「あれ? モリゾウさん、ですよね?」
「モリゾウは別です」
モリゾウだと思っていた男性がマキマキさんとの間に両手で人の形を作った。
「ええっ。野間さんはわかってました?」
「もちろん。佐藤さんって早合点得意だもんね」
自覚はある。夫が桜の花を「きれいだね」と言ったのを、自分のことだと勘違いしたくらいだから。
「モリゾウが元々ここでバイトしてたんですわ。役者やりながら」
「もしかして、『たとえこの雪が溶けてしまうとしても』とか?」
千佳子がタイトルを口にすると、カウンターの中のふたりが驚いて千佳子を見た。
「観られたんですか?」
マキマキさんが身を乗り出す。千佳子が去年見つけたとき、公演の日付は13年前だった。ふたりが出会う前かもしれない。
「いえ、チラシを見ただけで。makimakimorizoを調べていたら、たまたまヒットして」
しかも、作・演出・主演のモリゾウの顔写真を見たら動画配信の英語講座で何百時間も見ている「パセリ先生」で驚いた。そのことは言わない。あえて。
恋愛確率。
頭に浮かんだ漢字4文字を千佳子は慌てて打ち消す。恋じゃない。恋は始まらない。2次元が3次元になるだけだ。画面越しでしか会うことがないと思っていた人に会える。マイク越しでしか聴くことがないと思っていた声を聴ける。それだけのこと。だけど、台湾風サンドイッチの味がわからなくなるくらいには舞い上がっている。
わたしにもテンペイが降ってきたのだろうか。
どうしよう。推しが町にやって来る。
次回4月20日に伊澤直美(51)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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