第61回 佐藤千佳子(21) こぼれた大豆に哀しみを覚えた頃
「マミ先輩も第一志望受かったって!」
中学2年の学年末。娘の文香のバスケ部の先輩たちの受験結果が同級生部員のモモちゃんから速報で伝えられるのを、千佳子はまた聞きしている。
一人で何校も受けているらしく、千佳子の知らない学校名が次々と出てくる。こんなにいくつも高校があるのかと感心し、安心もする。学校のカラーといい、難易度といい、千佳子の地元で選べた進学先とは比べものにならない選択肢がある。これだけあれば選び放題ではないか。
ミホ先輩が一番できるんだ、副キャプテンのマミ先輩はキャプテンのリエ先輩より上なんだと文香は先輩たちの受けた学校から学力の立ち位置を知る。偏差値で高校のランクづけがくっきりとされている。どの辺りの高校に納まるかで、どの辺りの大学を狙えるかまで見通せる。さらには就職先、選べる職種も。
15歳で、人生がある程度読めてしまう。
だが、大学を出た後、結婚してからでも人生は変わるし、学びが続くことを今の千佳子は知っている。
「モモちゃんて、何でも知ってるんだね」
千佳子はモモちゃんの情報収集力にも感心する。誰と誰が両想いになった、誰が誰に振られたという恋愛事情も、産休中の先生に子どもが生まれたという話も、モモちゃんがいち早く知り、バスケ部の同級生部員に回してくれる。
「モモちゃんママの人脈ハンパないから」と文香が言う。
情報というのは回ってくるところにはどんどん集まるが、素通りどころかかすりもしない蚊帳の外エリアがあり、千佳子は子どもの頃からそこに定住している。
千佳子が蚊帳の外の住人だとすると、モモちゃんやモモちゃんママは生まれついてのど真ん中住人なのだと思う。
ど真ん中住人のまわりには、取り巻きがいる。幼稚園で一緒だった晴翔くんママと、彼女の両側が定位置になっていた悠真くんママと銀牙くんママのような関係だ。千佳子は取り巻きエリアのさらに外側に張りついているが、ときには振り落とされる。
頭の中で床にこぼれた大豆が転がり、カラカラと乾いた音を立てる。
小学校の理科の授業で遠心力なる力を目で見て理解させようと担任の先生が用意したのが、大豆を入れた透明な小ぶりのバケツだった。透明なので外から大豆が見える。「回したい人?」と先生に聞かれて最初に手を上げた子が代表で前に出た。こういうとき、千佳子は決して手を上げない子だった。
代表の子に先生がバケツの取っ手を持たせ、腕をぐるぐる回させた。バケツが逆さまになっても大豆は容器に張りついたまま落ちない。遠心力が働いているからだと先生は言い、千佳子を含めた児童たちは目に見えないその力を大豆によって見ることができた。
図工の時間に絵の具の水入れバケツをぐるぐる回して遊ぶ男子を見て、バケツをひっくり返しても水が落ちない不思議な力が働いていて、遠心力という名前であることは知っていたが、透明なバケツの中の大豆の粒のひとつひとつが振り落とされずに踏ん張る姿を見ることで、「ほんとだー」となった。
千佳子が鮮烈に覚えているのは、容器に張りついて落ちなかった大豆ではなく、回転による遠心力から解かれた弾みでバケツを飛び出し、床にこぼれた大豆のことだ。
腕をぐるぐる回しているうちは遠心力が働いているが、動きを止めるときが難しいことは、水入れバケツをぐるぐるやって色水を浴びる男子を見て学んでいた。
バケツが真下に来たときに腕を止めれば、弾みで飛び上がった大豆はバケツに受け止められる。だが、腕を止めるタイミングがずれると、いくつかの大豆がバケツから振り落とされてしまう。
小学生だった千佳子は「あっ」と小さな悲鳴を上げ、床を転がる大豆を目で追った。ほとんどはバケツに残っているのに、ほんの数粒が振り落とされた。割合でいうと何百分のいくつのはみ出し者。
わたしはバケツに残るほうではなく床を転がるほうだ。
胸がギュッと締めつけられ、呼吸が浅くなり、大豆を見つめる目に涙がせり上がった。咄嗟に席を立って教室の前まで進み出て、こぼれ落ちた大豆を拾い集めた。お手伝いありがとうと言った先生も、クラスの子たちも、千佳子にしては珍しく素早い行動がまさか大豆に自分を重ねていたたまれなくなったからだとは思わなかっただろう。
「床に落ちた大豆の気持ちを書きなさい」という自由作文を出されたら、何を書いていいか考えあぐねるクラスメイトを尻目に千佳子は夢中で鉛筆を走らせたに違いない。国語は比較的得意な教科だった。時々作文をほめられた。一度だけ読書感想文が学年の代表に選ばれ、学校便りに印刷されたことがある。千佳子にスポットライトが当たった数少ない出来事の一つだ。
文香は、ど真ん中でもなく、蚊帳の外でもなく、取り巻きエリアの居心地の良さそうなところにいる。こぼれ落ちた大豆に自分を重ねて哀しみを覚えることはなさそうだ。友だちづきあいも勉強もマイペースだが、3年生の高校受験のそわそわを見て、来年は自分たちの番だと受験生の自覚が芽生えただろうか。
「ふーちゃん、行きたい高校あるの?」
話の流れで何気なく聞いてみた。
「高校って行く意味あるの?」
意外な答えが返ってきた。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第62回 佐藤千佳子(22)「男女っていつから逆転するの?」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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