第44回 佐藤千佳子(16) においと音で描く地図
千佳子にはカズサさんが見えているが、カズサさんには千佳子が見えていない。
「カズサさん」と声をかけると、
「スーパーマルフルの佐藤さんですか?」
カズサさんは声で千佳子だと言い当てた。
「すごい。覚えていてくださったんですか」
「一度聴いたら忘れませんよ。その声」
「わたしの声、ですか」
さほど特長のある声だとも思えないのだが、カズサさんの印象には残っていたらしい。
いつもはパートの先輩の野間さんがカズサさんを案内しているのだが、野間さんに頼まれて、千佳子は一度だけ買い物のお手伝いをしたことがあった。カズサさんがスマホのメモ帳に打ち込んだ買い物リストの「合い挽き肉」が「逢い引き肉」になっていて、ふたりで大笑いした。
今も挽き肉を見ると思い出し笑いしてしまうし、挽き肉料理を食卓に出すたびに同じ話をして、「その話、何回目?」と夫と娘に呆れられている。店でお客さんと笑い合うということがめったにないので、印象に残ってるのだ。
また会って、もっと話したいなと思っていたのだが、カズサさんが買い物に来る時間帯と千佳子のシフトの時間帯がずれているのか、なかなか再会できずにいた。
それが、こんなところでバッタリ遭遇するとは。
「カズサさん、もしかして、道に迷ってます?」
「そうなんです。バス停を探してたんですけど、目印を見失ってしまって」
目印を見失ったとカズサさんが言うのを聞いて、そうだったと思い出す。以前、カズサさんを案内したとき、目の見えないカズサさんが「見る」という言葉を使うことが、最初は意外だったが、ものを見るのは目だけではないことに気づかされた。
音声読み上げ機能を使って、ネットのチラシを見る。鼻でハーブの香りを見る。手触りで葉っぱの形を見る。舌で味を見る。横断歩道では、信号を見る代わりに音で左右の安全を見る。
カズサさんと出会って以来、千佳子は視覚以外の感覚に目を向けるようになった。
「あ、わたし、点字ブロックを踏んでしまっていますね」と千佳子は気づき、足をどける。
「私もふさいでますね」と立ち止まっていたカズサさんも点字ブロックから離れた。
「カズサさんとわたしが今いるところが、バス停の前です」
「そうなんですか。でも、いつもはバス停の前で、ケーキを焼く香ばしいにおいがしてるんですよ」
「きりかぶ」のパンケーキのにおいのことだろうかと千佳子は思い、においなんてしてたっけと記憶をたどる。黒板にチョークで描かれたパンケーキに見入っていたとき、店の中から漂うパンケーキのにおいには気づかなかった。絵のパンケーキに気を取られていたのかもしれない。
「ここにカフェがあったんですけど、お店が変わっちゃったんです」と千佳子が言うと、
「なんや、それでわからんかったんや」とカズサさんは関西弁で納得した。
「パンケーキが自慢のお店だったみたいです。店の前に黒板が出ていて、チョークでパンケーキの絵が描いてあって。すごくおいしそうでした」
「ああ。あれパンケーキのにおいだったんですね」
バス停の前にある店から漂う甘いにおいを目印にして、カズサさんはバス停を見つけていたらしい。
「においが目印になるんですね」
「なるんです。におい目印です」
カズサさんはそう言って、「においで地図を描く感じですね」と続けた。
「でも、マスクしてると、わかりづらくないですか」
「そうなんですよ。でも、だいぶ嗅覚が育ってきて、マスクしてても、前と同じくらい鼻がきくようになりました」
「嗅覚って育つんですか?」
「当社比ですけどね。筋トレと同じで鍛えられるみたいです」
におい目印。
においで地図を描く。
嗅覚が育つ。
カズサさんと話していると、聞いたことのない組み合わせの言葉が飛び出して面白い。
「においが変わると、地図も変わっちゃいますね」と千佳子が言うと、
「そうなんですよ。とくに飲食店の入れ替わりが早いですよね」とカズサさんは言った。
休んでいる店も多いし、「きりかぶ」みたいに消えてしまう店もある。
「実は、わたし、今日初めて、パンケーキを食べに行こうと思っていたんです」
店が変わっていたので通り過ぎてしまい、引き返して来たところでカズサさんを見つけたことを話すと、「すごい偶然ですね」とカズサさんは驚いた。
別々の目的を持って、別々の目印を頼りに、ふたりが同じタイミングで同じ店を探していたのだ。
「あのときの買い物が楽しくて、また佐藤さんに会いたいと思ってたんです」
「わたしもです。またカズサさんに会えてうれしいです」
「きりかぶ」は幻となってしまったが、別な理由でその店を探していたカズサさんに会えた。駅からバスに乗らず、歩いて来なければ、なかった再会だ。
「あのいいにおいのお店にいつか行ってみたいって思ってたんですけど、もうないんですね」とカズサさんが残念がった。
「『きりかぶ』っていう名前で、絵本に出てきそうな可愛いお店だったんです」
店の外装について、思い出しながら千佳子は紹介する。
思い思いの方向を向いてドアの上に並んだアルファベットの「kirikabu」。店の前に置かれた切り株。その上に立てられていたティーカップの形をした黒板。チョークで描かれたパンケーキ。
「趣味の良さそうな店だなって思ってました。お客さんがドアを開けると、カランコロンってベルが鳴るんですよ。ドアの内側についているベルだと思うんですけど、それがとても澄んだきれいな音なんです」
カズサさんは千佳子の知らない「きりかぶ」を教えてくれる。それぞれが知っていることをつなぎ合わせると、ますます「きりかぶ」に行きたくなる。けれど、その店は、もうない。
ドラッグストアの名前を連呼する店内放送が店の外までこぼれている。
「これからは、この音を目印にします」とカズサさんは言った。
カズサさんは音も目印にする。におい目印と音目印で地図を描く。
「音目印って、乙女の印みたいですね」と千佳子が言うと、
「オトメジルシ。ほんまや」とカズサさんはまた関西弁になって、笑った。
それから、「アイビキ肉」とふたり同時に思い出して口にし、笑い合った。
ドラッグストアは、千佳子のパート先のスーパーの隣にある店の系列店だ。その店で真っ赤な口紅を買い求めた化粧品ブランドのポスターが新しくなっている。「扉をひらく色」というキャッチコピーはそのままだが、モデルの女性が一人からふたりになっている。
目尻に笑いジワができる自然な笑顔を弾けさせるモデルのふたりが、まるで今のわたしとカズサさんみたいだと千佳子は思う。
「佐藤さん、今笑ってます?」
「え? わかります?」
「ふふ。なんとなく、そうかなって」
千佳子がポスターのことを伝えると、カズサさんが言った。
「ちょうど口紅を買いたいと思ってたんです。一緒に選んでもらえますか?」
カズサさんに腕をつかんでもらい、ドラッグストアの自動ドアを入る。「きりかぶ」の扉は開けられなかったけれど、今日も新しい扉が開いた。におい目印。音目印。鼻と耳で描く地図。いくつになっても、世界は広がる。大人になっても、女子高生みたいにケラケラと笑う。目尻にシワはできても、心はオトメジルシのわたしたち。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第45回 伊澤直美(15)「『良かれ教』の困った人たち」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!