第71回 多賀麻希(23) それからのルーズソックスのそれから
ゴールデンウィークが明けた月曜の朝。『それからのルーズソックス』を観たいとモリゾウが起きぬけに言い、先に起きていた麻希はドキッとした。
まさか、わたし、寝言で「ルーズソックス」って口走ってた?
浅い眠りの明け方の夢にルーズソックスが出てきた。ルーズソックスの足元には斑入りのクローバーが白とグリーンのグラデーションの絨毯を広げていた。
ルーズソックスの上にはセーラー服。夢の中の彼女がライターに火をつけようとしたとき、「やめて!」と思わず叫んだ自分の声で麻希は目を覚ましたが、モリゾウは麻希の隣で寝息を立てていた。
夢に出てきたセーラー服は、麻希が通っていた高校の制服だった。ライターで火をつけようとしていたのは、高校時代の麻希だ。
ひと月ほど前、髪をなでていたモリゾウに見つけられた頭の小さな更地から、家の裏庭を焼いて更地にした高校時代の記憶が蘇った。スナップショットのような断片の連なりとなって。
風に巻き上げられる灰。
紙の焦げた匂い。
炎の唸り。
父の怒鳴り声。
野次馬の怒号。
カメラのフラッシュ。
消防車のサイレン。
自分の記憶と、ツカサ君の書いた『制服のシンデレラ』の脚本が混じり、どこまでが実話でどこからが創作だったか、境目が曖昧になっている。
変な夢を見ちゃったなと思ったが、夢を見るということは、起きている間にそのことを考え足りていないということだ。「夢って、未練のカタマリなんだよ」と教えてくれたのもツカサ君だ。
視界にちらちらと入る伸び過ぎた前髪みたいに、ツカサ君が脳裏を横切る。払いのけても追いかけてくる。
だから、一度もはいたことのないルーズソックスが夢に出てきたのだ。
20代を過ごした映画製作会社が作ったB級青春映画『それからのルーズソックス』。その撮影現場で麻希はツカサ君と出会った。
エキストラだったが、恋人同士の役を振られた。ツカサ君は彼氏と彼女の性格や、いつどんな風に出会って、この日が何度目のデートかといった細かい設定を考えた。デビューを目指して脚本コンクールに応募していて、こういうのも勉強になるんだと話していた。
いちごパフェのいちごにフォークを刺して食べるか、手で食べるかもツカサ君は考え、彼氏が彼女に食べさせてあげるのはどうだろうと麻希に提案した。
いちごについたクリームと一緒に出会ったばかりのツカサ君の指をなめた。告白して両想いになって今日から彼氏彼女という記念日はなく、撮影現場がエピソード0で、その続きのようにつき合い始めた。
ツカサ君という人がいたことをモリゾウには話していない。『それからのルーズソックス』で麻希とツカサ君が共演していることも、もちろん知らない。麻希が出ていることさえ知らないのだ。
39歳の再就職活動に尻込みして、かつての職場があった新宿三丁目の雑居ビルに足が向き、立ち寄ったカフェでマスターにモリゾウを紹介されたあの日。なんとなく一緒に店を出て、同じ電車に乗り、麻希の部屋に流れた。
モリゾウが観たがった『魚卵パニック イクラ革命』の関係者試写DVDが見つからず、代わりに見つかったのが『それからのルーズソックス』だった。
ラベルに油性マーカーで書かれたタイトルをモリゾウが読み上げたが、麻希は「これ映像資料」とはぐらかし、DVDを引き出しにしまった。以来、『それからのルーズソックス』がふたりの口に上ることはなかった。
なのに、なぜ今、このタイミングで。
まるで、明け方の夢をのぞかれていたみたいだ。
外付けのプレーヤーにDVDをセットして、モリゾウとパソコン画面をのぞき込む。
最後に観てから10年あまり。久しぶりに『それからのルーズソックス』を観て思ったのは、「お金かけてないな」ということだった。
「製作費たったの300万や」と後に夜逃げした社長はぼやいていたが、さらにケチったと思われる。主演のグラビアアイドル咲良栞子のアップがやたら多い。写すものがないから顔を撮って埋めている感じだ。プロモーションビデオだと思えばいいのかもしれないが、本編が70分もある。それを3日で撮り切った。
麻希とツカサ君が恋人役を演じたファミレスのシーンが近づくと、そわそわした。演じたと言ってもセリフのないエキストラだし、ヒロイン越しにボケボケで映っている。ピントが合うのはほんの一瞬。モリゾウは麻希に気づかないかもしれない。
「これ、マキマキ?」と聞かれたら、
「そう、これわたし」とサラッと言えばいい。
今より15歳若い、25歳のわたし。
15年分、重力に引っ張られず、ストレスにさらされず、理不尽に泣かされていない。今、胆のうを順調に埋めている胆石も多分まだできていない。
「あれ?」とモリゾウが反応した。
気づかれたか。
「ここって、もしかして」
モリゾウは、画面の中の麻希ではなく、空間に反応していた。
そうだった。モリゾウはこのロケ地を知っている。映画製作会社が入っていた雑居ビルの1階に当時あった「モニカ」というカフェ。いつもコーヒーやオムライスを出前していたよしみで、「タダでロケさせてや」と社長がねじ込んだのだろう。
今はオーナーも内装も変わり、「焙煎珈琲然」という看板を出している。その看板を拾って来たのは、麻希の前に店でバイトしていたモリゾウだ。マスターは店に名前をつけておらず、「好きなように呼んでくれたらええ」というスタンスだが、看板に書かれた「然」が定着し、クチコミサイトにもその名前で出ている。
「同じ場所だって、よくわかったね」
「カウンターの形が同じだから」
壁の色もテーブルも椅子も照明も違うが、カウンターの形はそのままだった。今は夜逃げした社長に話し方がよく似ている関西人のマスターが焙煎珈琲を淹れているそのカウンターに、当時はサーファー上がりの茶髪のマスターが入っていた。すっかり忘れていたが、ちゃっかり出演している。「どうせ撮影に立ち会うんやったら出てや」と社長に言われたのだろう。
モリゾウに出演を気づかれないまま、ファミレスのシーンが終わった。
一瞬ピントが合ったツカサ君は、覚えているツカサ君よりさらに細かった。それより痩せていたのは、いちごパフェだった。麻希の記憶にあるパフェは大粒のいちごが山盛りになってクリームを隠し、鮮やかな赤が眩しいのだが、劇中のパフェは小粒のいちごが数粒添えられているだけで、圧倒的に白かった。
「モニカ」のメニューにないパフェを茶髪のマスターに無理を言って作ってもらったのだった。タダでロケ地を提供して、タダ働きのマスターは、パフェの材料費も持ち出しだったのだろう。いちごがドカドカのっているわけがない。
なのに、10年あまりの間に、麻希の中で、いちごが大きくなり、増えていった。終わった恋の思い出にトッピングしてしまっていた。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第72回 多賀麻希(24)「愛せないヒロイン」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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