第202回 伊澤直美(68) 卵から何が生まれる?
帰宅したイザオに10個全部にヒビが入った卵を見せ、ワッハッハーのおまじないと優亜の言葉に救われたことを報告した。
早く食べたほうがいいよねという話になり、イザオが「茶碗蒸し」、優亜が「ぱんけーき」と希望を挙げたところで直美のスマホが鳴り、会話は中断した。
スマホを鳴らしたのは亜子姉さんだった。メッセージを送ったけど既読がつかないから通話にしたと言う。卵騒動でスマホを確認するどころではなかった。
亜子姉さんの両親はイザオの両親であり、直美の義両親である。良くない知らせかと身構えたが、そうではなかった。
「急なんだけど、明日、幸太と結衣を連れて遊びに行ってもいい?」
隣の家が朝から工事をするので子どもたちを連れて出かけようかとなったところ、結衣が「ゆあちゃんちがいい」と言ったという。
「いきなり押しかけられるのはちょっとってことだったら、どっか外でも」
「ううん。明日来てもらえたら助かる」
「何? 歓迎されてる? なんかあった?」
「卵が割れちゃったの。だから、甘いもの持ってこないでね」
「あー、そういうこと?」
亜子姉さんは、すぐに状況を察した。
「いくつ割れたの?」
「パックごと」
「やっちゃったね。で、何作るの?」
「パンケーキはどうかなって」
「卵1パック使い切ったら、すごい量になるよ」
亜子姉さんに言われ、直美は通話しながらパンケーキのレシピを調べる。2枚分で卵1個とあった。卵10個で20枚。6人で割ると、3枚ずつ食べても2枚余る。優亜と結衣は一人で一枚食べきれるかどうか。となると、さらに余る。パンケーキは焼きたてがおいしいし、食べ切るのは現実的じゃない。
「プリンは?」
隣で会話を聞いていたイザオが口を挟む。さっきは茶碗蒸しを希望していたから、卵液を固める系が好きらしい。
「プリンいいじゃん。でっかいの作ろうよ」
亜子姉さんが声を弾ませ、話は決まった。
通話を終え、巨大プリンの作り方を調べると、耐熱ボウルに入れて湯煎するレシピが見つかった。ボウルをひっくり返すと、丸みを帯びたドーム状のプリンになる。
「おなじみのプリンの形で大きくなってるほうがうれしくない?」
スマホ画面を覗き込んだイザオが言う。
「横から見ると台形のプリンってこと?」
「ていうか、円錐の上をスパッと切った形」
直美はプリンの形状を平面でとらえ、イザオは立体でとらえている。
さらに、いろんな人が「バケツプリン」というハッシュタグをつけて写真を投稿しているのを見つけた。確かにプリンってバケツの形だ。プラスティックのバケツに入れてゼラチンで冷やし固める作り方らしい。
「おもちゃのバケツある?」と亜子姉さんにメッセージで聞いてみると、「砂遊び用に買ったやつがある!」と返事があった。
亜子姉さんが描いたイラストも送られてきた。顔がプリンになっていてカラメル色のマントを羽織ったキャラクラーに「プリンマン参上!」と手書き文字が添えられている。手に持った水色のバケツの中にはプリン液と思われる黄色い液体。傾いてもこぼれないということは、固めた後かもしれない。フリーランスのイラストレーターとしての仕事がふえている亜子姉さんは、こういう絵をさっと描いてしまう。
あくる日、朝食を終えたところでチャイムが鳴り、インターホンのモニター画面に亜子姉さんと幸太と結衣が映っていた。小学5年生になった幸太はまた背丈が伸びている。
時計を見ると、まだ9時前だ。朝から工事だと言っていたが、思っていたより早かった。だが、亜子姉さんが急いでやって来たのは、別な理由だった。
「直美ちゃん、大きいプリン固めるの、かなり時間かかるらしいよ。早めに作らないと、おやつの時間までに固まらない」
確かに、量が多い分、冷やし固めるのに時間がかかりそうだ。ゼラチンより寒天で固めたほうが早いかもと直美と亜子姉さんが話していると、
「容量1リットルってなってるけど?」
亜子姉さんが持ってきたおもちゃのバケツを見て、イザオが言った。卵10個に牛乳1パックを使うレシピで作ろうとしているので、バケツにプリン液が収まりきらない。
「あれ使えるんじゃない?」
亜子姉さんがガス台の正面に吊るした鍋を指差した。牛乳やスープを温めるのに使っている小ぶりの鍋で、底よりも口が広がり、平たいバケツのような形をしている。
「おー、これがあった。やった、これで蒸しバケツプリンが作れる!」
茶碗蒸しが好きなイザオは、湯煎で固めるプリンが食べたかったらしい。
1パックの卵を5個ずつ使い、冷やしプリンと蒸しプリンを作ることになった。
ヒビが入った卵の中身をボウルに空けるのは直美がやり、結衣と優亜には牛乳と混ぜるのを手伝ってもらった。直美が亜子姉さんにかいじゅうと「ワッハッハー」のおまじないの話をすると、優亜が「せかいじゅう わらいじゅう かいじゅうも わらいじゅう」と歌い出し、結衣もつられて歌った。
幸太は作業にも歌にも加わらず、リビングの床に腹ばいになって絵を描いている。幸太が小学校に上がる前、家で一日預かったときも、この格好で描いていた。パソコンを打つ直美の背中を描いた絵に「なおみちゃんおしごとがんばってる」と書き添えられていた。子どもを持つことをためらい、幸太に背を向け、大して急ぎでもない仕事に逃げ込んだあの日の大人げなさを反省する。
「うわ、すげーなコータ。プロじゃん」
幸太が描いている絵を覗き込んだイザオが驚いた声を上げた。
見せてと直美も近づいて覗き込み、「うわ、やば」と思わず見入った。
大きなスプーンを持って舌なめずりするかいじゅうの前に巨大なプリン。直美と亜子姉さんの会話が聞こえて、かいじゅうを描いたのだろうか。
プリンのてっぺんがスプーンですくった後のようにえぐれている。かいじゅうが食べたらしい。表情が生き生きしていて、セリフの吹き出しをつけたくなる。ひとコマ漫画みたいだ。
「コータの絵、見るたびに進化してる。小学生の絵じゃないね」
「描いてきた時間は大人並みだからね」
亜子姉さんによると、幸太の絵はコンクールでも受賞を重ねているが、最終選考に残るたび、親や教師が描いたのではないかと確認の問い合わせが来るという。
「私が描いたら、こんなレベルじゃないっての」
美大出身の亜子姉さんは笑って言ってから、「でも、このタッチは、私には真似できない」と幸太らしさをほめた。
「そう言えば、亜子姉さんのお腹にコータが描いたのって、かいじゅうじゃなかった?」
写真で見せてもらったその絵を直美は思い出す。当時幸太は小学1年生だったが、すでに画風が成熟していた。
「あれ恐竜だよ。結衣がお腹から出たら、シワシワのトカゲになっちゃったけど」
そうだったと直美は記憶が蘇る。亜子姉さんの2人目妊娠に半年遅れてお腹を膨らませていた直美は、「男でもない、女でもない、妊婦という性」を楽しむ亜子姉さんに刺激を受け、マタニティビクスに通うようになったのだった。
「ゆいちゃんもおえかきする!」
「ゆあちゃんも!」
幸太の真似をして、結衣と優亜もサインペンを握り、絵を描き始めた。
「お、これ、プリンだな?」
イザオが指差すと、「そうだよ」と結衣と優亜が声を揃える。
バケツ型のプリンが2つ描かれている。2種類のプリンを描いたのか、結衣と優亜がひとつずつ描いたから2つなのかはわからない。冷やしプリンは冷蔵庫に入れ、蒸しプリンはオーブンレンジの中で湯煎にかけられている。
「プリンが出来上がる前に絵ができちゃったね」と亜子姉さんが笑う。
「卵って、天才だよな。プリンも生まれるし、芸術も生まれる」
イザオがいいことを言ってるだろという顔で言う。
「孝雄って、いいこと言ってるって顔して、それっぽいこと言うよね」
直美は亜子姉さんの言葉にうなずきつつ、卵って天才だとイザオの言葉にもうなずく。
幸太に恐竜を描かれたお腹から結衣が出てきて、幸太に背中を描かれた直美は結衣から半年遅れて優亜を授かり、結衣と優亜は「ゆあちゃん」「ゆいちゃん」と呼び合い、「かいじゅうさんがうまれるんじゃない?」と優亜が言ったヒビ割れた卵からプリンを作るお手伝いをして、そのプリンの絵を描いている。
直美は笑う。楽しくて笑う。卵だった子どもたちを眺めながら。
次回10月11日に多賀麻希(67)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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