
第207回 伊澤直美(69) もめるようなことじゃないのに
リビングを飛び出し、玄関まで来て、靴を履く手前で足が固まった。
家を出て、どこへ行こうとしているのか。どこかへ行ったところで、いつ戻るつもりなのか。
優亜を置いたままで。
土曜日の朝。朝食を終え、コーヒーを飲みながら、今日は何しようかとイザオと相談していた。つい30分前。
天気もいいし、歩きたいね。行き先を決めずに出かけて、行った先で見つけたお店でランチしよう。
優亜が生まれる前のデートみたいな気ままな過ごし方。オムツやミルクの心配がいらなくなって、行きたいところに身軽に気軽に行けるようになったんだなと時の流れを感じた。
優亜は3歳と10か月になった。何か月刻みに年齢を数えるのも、そろそろ卒業かもしれない。
穏やかな休日になるはずだった。
「靴下がないんだけど」
出かける準備を始めていたら、イザオに言われた。ムッとした口調に、ちょっとカチンときた。まるで直美が靴下係で、その職務を怠ったことを責めるような言い方。
「え? わたしって靴下係なの?」
直美が不満を込めて質問すると、
「干しといてって言ったよね?」
イザオは語気を強めてハテナを打ち返してきた。
「聞いてないけど」
「言ったよ。うち出るとき」
昨日はイザオが優亜を保育園に送り、直美が迎えに行った。直美は在宅勤務だった。イザオは家を出る前に洗濯をスタートさせ、干すのは直美に託した、つもりだったらしい。
「聞いてない」
「一日中うちにいたんだよね?」
その言葉に、さっきより大きなカチンを食らった。小さなヒビが入っただけだったのが、裂け目が広がっていく。ピキピキと嫌な音を立てて。

一日中うちにいたから何?
言い返したいのを飲み込んだ。
たとえ聞き逃していても、家にいたなら、洗濯機が立てる音に気づけたのではないか。洗濯が終わったことを知らせる電子音も鳴ったはずだとイザオは言いたいのだろう。
でも、在宅だからといってヒマを持て余しているわけではない。通勤時間は浮くが、勤務時間は変わらない。会社でやることを家でやるだけだ。洗濯機が動いているかどうか、いちいち気にしていられない。
部署が違うとはいえ同じ会社の同期なのに、そんなこともわからないのか。うちの夫は。
イザオが当てつけみたいな大きな足音を立ててリビングを出て行った。ピ、ピ、ピと操作ボタンが短い電子音を鳴らしたのに続いて、洗濯槽に水が注がれる音がした。洗濯をやり直すことにしたらしい。
夏ほどではないが、濡れたままの洗濯物は、水臭い匂いがついてしまう。以前まで使っていた香りつきの洗剤だと、あまり匂いが気にならないが、優亜が生まれてからは、肌へのやさしさを考えて、植物性で香料のついていない洗剤を使うようになった。
「わたしの靴下あるけど」
大股でリビングに戻ってきたイザオに言った。努めて明るい声で。
「本気で言ってる?」
「靴下って結構伸びるよ」
「ていうかさー」
そういう問題じゃないというようにイザオは口を尖らせる。
ていうか何?
今から靴下を買って来いと言いたいのか。その前にまず謝れと言いたいのか。
「干さないんだったら、洗濯していかなかったのに」
恩着せがましい。洗剤入れてスイッチ押すのなんて一瞬なのに。
「わざと干さなかったわけじゃないし。わたしだけが悪いわけ? イザオだって、ついさっき、靴下がないって気づくまで忘れてたよね? 昨日帰宅したの、何時だっけ? 8時? そっから12時間以上、気づくチャンスあったよね?」
「だれがわるいの?」
優亜の声がして、ハッとした。イザオも同じ反応をした。優亜が聞いていた。

パパとママがケンカしていると思われている。実際、険悪にはなっているが、まだケンカにはなっていない。その手前。
「誰も悪くないよ」
直美は笑顔を貼りつけて明るく言い、優亜を抱き寄せる。
「よし、行こっか」
「俺はいいよ」
イザオはすねている。靴下がないから出かけられないのか、直美への当てつけなのか。
「パパおこってる」
「そうだね。パパの機嫌はちょっと悪いみたい」
「そういうの、やめない?」
イザオの声がさらに尖った。機嫌が悪いことを自ら証明してしまっている。
「そういうのって?」
「2対1に持ち込むの」
「持ち込んでるつもり、ないけど」
何か言えば言うほど、溝が深くなる。こんなもめるような話じゃないのに。
子どもを産むか産まないかですれ違っていた頃は、不毛な会話を繰り返していた。何を言ってもわかり合えない。相手のことも自分のこともどんどん嫌いになってしまう。
優亜がお腹に入って、産む産まないでもめることはなくなったが、時々イザオが遠い人になる。別々の家庭で育った他人なんだなと突きつけられる。
どうしてこうなっちゃったんだろ。靴下がもうひと組残っていたら、今頃出かけてられたのに。
「だいたいさー、栗、ずっとここにあるけど」
キッチンカウンターの上にイザオが目をやった。

突に栗のことをなじられて、もうダメだと思った。
ずっとここにあるから何?
3つ並んだ栗を見て、「ママとパパとゆあだね」って優亜が言ったのが可愛くて、もったいなくて、そのままにしてるんだけど。
それを聞いてなかったとしても、3つ並んだ栗を見て、イザオは何も思わないの?
わたしはふたりのままでいいと思ってたのに、もうひとり欲しい、どうしても欲しいって言ったの、イザオだよね?
こんなこと、思いたくなかった。
こんな気持ちにさせないでよ。
何か言えば言うほど、気づかずにやり過ごしていたことがあぶり出されていく。今日はいていく靴下がなかっただけなのに。
耐えきれなくてリビングを飛び出して、靴をはこうとして、足が止まった。
どこにも行けなくて、すとんとその場に腰を下ろす。
リビングからは優亜の声もイザオの声もしない。ふたりとも、あっけに取られているのだろうか。何が起きたかわかっていないかもしれない。波立ってあふれかけたのは直美の中のことだけで。
静まった廊下に洗濯機が回る音がする。
ザザン、ズズン。ザザン、ズズン。
水を含んだ洗濯物が洗濯槽の壁に体を打ちつける音に責められているような気がする。本来は必要のなかった2度目の洗濯。
遠慮がちな足音が背中から近づいて止まった。優亜が隣に腰を下ろし、直美の顔を見上げる。
「ママないてるの?」
「泣いてないよ」
「なきたいの?」
「泣きたくないよ」
無理して笑ったけれど、ぎこちなく、ひきつっているのがわかる。
「ママ、なきたいおかお、してる」
泣きたいお顔。
顔に「お」をつけられた。お顔なんて言われたの、いつぶりだろう。最後にエステに行ったの、いつだっけ。
「ママ、そんな顔してるの?」
わたしは泣きたくないと言っているのに、わたしの顔は泣きたがっているのか。

次回11月29日に伊澤直美(70)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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