第203回 多賀麻希(67) 夫の時間を返して
どうしてこんなことになったんだろうと麻希は思う。
英語を聴いている。英語ということはわかるけど、何を言っているのかわからない。午後の陽射しの温かさもあいまって眠気を誘われ、うとうとしかけたところで日本語に切り替わった。
素通りしていた音声にピントが当たる。慣れ親しんだ音の連なりは先ほどまでの英語の内容を伝えているはずだが、音に意味がついてこない。
たとえば、「オンシツコウカガス」という言葉。「オンシツ」と「コウカ」が頭の中で漢字に置き換わらないから、理解が追いつかない。
地球温暖化についての文章なので、オンシツはどうやら「温室」らしい。するとコウカは「効果」らしい。唯一意味がわかったつもりでいた「ガス」は、コンロで使うあのガスではなく「気体」を指すらしい。温室効果ガスとは、地球の表面付近を温めている気体のことで、その大半を占めているのが二酸化炭素らしい。
らしい。らしい。らしい。
麻希は大学受験をしていないし、英語は中学生の時点ですでに授業から取り残されていた。高校生のとき家の裏庭で教科書に火をつけたが、英語の教科書には書き込みもマーカーもなく、隅に描いたパラパラ漫画だけがあった。それすらも5ページほどで終わっていて、何もかもが中途半端で宙ぶらりんな高校時代を象徴していた。
なのに、40代半ばの今頃になって高校英語に再会するとは。
再会と呼ぶのはおこがましいかもしれない。麻希が高校時代に手こずった英語より、単語はさらに難しく文章は長くなっている。
東大に入学したものの卒業していないモリゾウは、「今だったら解けない」と言う。
「年々少しずつ難しくなっていったとして、四半世紀分だもんな」
モリゾウは動画配信の学習講座で英語を担当していた。中学生向けが中心で、高校生向けも一部担当したが、受験対策講座ではなかったから、今の最難関のレベルは手に負えないらしい。
当時のモリゾウが今の問題を解けなくても、モリゾウが今の時代の受験生だったら、やはり解いてしまうのだろうと麻希は思う。当時すでに解けなかった麻希は、今の問題を解けるかどうかなんて、考えもしない。
この夏、モリゾウは家庭教師を引き受け、英語を教えた。今、ダイニングテーブルの向かい側で参考書を読み上げている17歳の女子高校生に。
家庭教師というと、生徒の家にいる先生が向かうのが一般的だと思うのだが、なぜか生徒が訪ねてきた。麻希とモリゾウが暮らすこの家に。
家主の野間さんがアムステルダムで暮らす間、空き家になっている家の留守番として住まわせてもらっている。家賃はタダ、負担するのは光熱費だけ。その代わり、野間さんが帰国することになったら速やかに明け渡すこと。そして、野間さんの家族や友人や知人が訪ねてきたら、野間さんの代わりにできる限り応対すること。
だから、断れなかったのだ。野間さんの友人だという佐藤美枝子の頼みを。
いつもタイミングの悪いときに現れて、思いもよらないものを置いていく老女は、ひまわりの種と一緒に頼みごとを持ちかけてきた。夏休みの孫に受験英語を教えてやって欲しい、と。
しかも、場所は彼女の家でも孫の家でもなく、この家で。正しくは「野間さんの家で」と指定された。現在の住人を前にして「野間さんの家で」と言う。そのようにこの家を見ている。麻希とモリゾウを見ている。
家賃を払っていない家で授業料を取るわけにいかず、「野間さんにはお世話になってますし」とモリゾウはタダで引き受けた。そうなることを想定していたのではないか。だから「野間さんの家で」と指定したのではないか。つけ込まれたのではないか。
同棲期間が長かったとはいえ一応は新婚だ。夫婦水入らずの生活への遠慮はないのか。配慮はないのか。それとも、あえて、なのか。麻希とモリゾウがどのように家を使っているか、様子をうかがう意図があったのか。
のか。のか。のか。
すっきりしない始まり方だったが、やって来た孫は、感じのいい子だった。うわついたところはなく、それでいて陰気ではなく、ほど良い明るさと清潔感と品があった。お利口さん。優等生。学校の先生にも気に入られそうだ。祖母から見ても可愛くて仕方がないのだろう。
初回は佐藤美枝子がついて来て、手土産の焼きいもとバニラアイスを自ら皿に盛りつけ、一緒に食べた。その組み合わせをスーパーマルフルに提案して夏の焼きいもをヒットさせたのは自分なのだと佐藤美枝子は自慢げに言った。
スーパーマルフルと言えば、野間さんのパートの同僚だった佐藤さんが今も勤めている。佐藤美枝子の息子の妻で、モリゾウの生徒となった女子高生の母親で、ハーブマルシェをやりかけて止まっている佐藤さん。あの話はまだ生きているのだろうか。
それより佐藤さんは義理の母親が自分の娘をうちに送り込んでいることを知っているのだろうか。
授業の間、マキマキは出かけてていいよとモリゾウは言ったが、そういうわけにはいかなかった。
「いいよ。お茶出したりするし」
「そんなの自分でやるよ」
そういうことじゃない。モリゾウは何もわかっていない。高校生の女の子と二人きりにするわけにはいかないではないか。
娘でもおかしくない年齢だが、男と女にもなれてしまう年齢でもある。そういう自覚はないのか。佐藤美枝子も信頼しきっている。だから未成年のピチピチの孫を平気で送り込むのだ。
アトリエにもなっているLDKを避け、書斎だった奥の部屋で教えることになった。モリゾウが高校生を「フミカ」と呼び捨てにし、高校生がモリゾウを「タダトさん」と下の名前で呼ぶのが、開けたままのドアの向こうから聞こえた。穏やかでいられようか。
「フミカ」「タダトさん」と呼び合いながら、ふたりは麻希が理解できないことを話していた。英語はもちろんわからないが、日本語でもわからない。
関係代名詞、そんなのあったな。あったことは覚えているが、何だっけ。
関・係・代・名・詞。
関係。代わり。名。詞。
嫌な言葉だ。昔も今も嫌いだ。
フミカが帰った後も、17歳の異質な存在は残り香のように家に居座った。
モリゾウは食事中に思い出し笑いをして、「フミカがさー」と話し出すのだった。単語の意味を勘違いしていたとか、他愛のない話。単語の元々の意味がわからないから、どう面白いのかもわからないが、モリゾウが楽しそうだから麻希もつられて笑った。モリゾウは麻希が喜んでいるのだと勘違いして、食卓にフミカの話題がふえた。
ペットを飼ったら、子どもがいたら、こんな風に夫婦の会話の隙間を埋めるようになるのだろう。わたしとモリゾウはふたりで完結していると思っていたのに、フミカの話題に埋められると、そこに隙間があったことを自覚させられてしまう。
押しかけが最終日を迎えた居心地の悪い夏の終わり、「麻希さんにもお世話になったので」とフミカはクッキーを焼いてきた。そういう子なのだ。佐藤美枝子から聞いたのか、モリゾウが授業料を受け取っていないことを知っていて、そのことを心苦しく思っていた。
「どうやってお礼をさせていただいたらいいでしょうか」と聞かれた。
「いいんです。夫が決めたことなので」
「でも……」
「だったら、時間を返して」
なんてことを言い出すのだろうと我ながら驚き呆れた。
夫の時間を返して。わたしと過ごすはずだった夫の時間を返して。
そこまでは言わなかったけれど、気持ちはぶつけた。高校生相手に大人げない。なさすぎる。最低だ。
なのに、フミカは表情を曇らせることなく、明るい声で応じた。
「そうさせてください!」
次回10月18日に多賀麻希(68)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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