第51回 伊澤直美(17) 男でも女でもない妊婦という性
「世の中には男と女と妊婦がいる」
直美の夫イザオの姉で、夏にふたり目を産んだ亜子姉さんの言葉だ。
「それぐらい体が変わるから。なんじゃこりゃーってなるから」
甥っ子の幸太と姪っ子の結衣を連れて遊びに来た亜子姉さんに、妊婦の先輩としてアドバイスをもらっている。結衣は直美と亜子姉さんから目の届くリビングの床に敷いた布団で昼寝していて、幸太はイザオが外に連れ出している。
「両手と口を自分のために使える! 座ってお茶が飲める! 天国!」
亜子姉さんは紅茶とお菓子に歓喜の声を上げ、「せっかくゆったりお茶できるのに、フィナンシェを丸飲みしてしまった!」と悔やみ、「子どもを産むたび、食べるのが速くなっちゃってる」と嘆いてから、妊婦の身に起こる変化について語り始めた。
「9か月の間にお腹があんなに膨らむんだからね。第二次性徴の比じゃないよ。人体大改造レベル」
もちろん胸も大きくなるよと亜子姉さんはつけ足した。
「直美ちゃんも楽しみにしてて。胸が揺れるって、こういうことかーって初体験できるよー」
亜子姉さんいわく、妊娠とは「自分の体を舞台に繰り広げられる未知との遭遇」。いちいち心配しているときりがないので、「めったにできないアドベンチャーだと思って、つき合うのがいいかも」と言う。
たしかに妊娠中の体の変化はびっくりすることばかりだ。おなかが大きくなるにつれて、自分の体が別物のようになっていく。まさに人体改造が内側から行われているのを直美は感じている。
「あとは、ナイゾウ中に行きたいお店とか、行っといたほうがいいよ。子どもが外に出ちゃうと、しばらく出歩けないから」
ナイゾウ中は漢字に変換すると、「内臓中」ではなく「内蔵中」のことらしい。
子どもができたら、行動が制約される。命を授かる前、直美の「まだ産みたくない理由」は、今の自由が削られることだった。だが、いざお腹に命が入ると、優先順位が変わった。あんなに好きだったお酒もコーヒーも飲みたくなくなった。今はこの命を守ることが一番大事。この子が外に出たら、一緒に何しよう、どこに行こう。そんな風に考えるようになった。
例えば、今の時期だと、「今年のクリスマスはイザオとふたりだけど、来年のクリスマスは3人なんだな」と思う。サンタクロースのプレゼントは1歳から始めるのだろうか。字が読めるようになったら、どんな手紙を添えようか。何歳までサンタさんを信じてくれるのだろうか……などと、まだ産んでもいない子と過ごす未来のクリスマスを想像する。
「他に妊娠中にできるイベントと言えば、あ、これ面白かったよ」
亜子姉さんがスマホの写真を見せてくれた。
ピンク、オレンジ、黄緑、水色。色とりどりの恐竜がダンスしている楽しい絵。
「引いてみた写真が、これ」
「もしかして、亜子姉さんのお腹に描いたんですか?」
「そう。ここにおへそがあるでしょ」
亜子姉さんは出産の直前に、幸太に絵筆を持たせ、好きに描かせたという。 お腹の膨らみがドーム型のカンバスになっている。
幸太の絵は構図と色使いが大胆で、眺めていて楽しい。美大出身で、今も絵を描いている亜子姉さんの影響もあるのだろう。
「恐竜たちが赤ちゃんを歓迎しているみたい」
「でしょ? 火山もオメデトーって噴火してるの。アフターも見る?」
「アフターって、産んだ後ですか?」
「そう。赤ちゃんと胎盤が出た後」
亜子姉さんは画面をスワイプして何枚か後の写真を呼び出し、直美に見せようとして、
「これは見せないほうがいいかな」
と引っ込めた。
「なんでですか?」と直美が聞くと、
「刺激が強いかも」と亜子姉さんは言った。
ぺしゃんこになったお腹は、伸びきった皮がシワシワの蛇腹状になり、その上に描かれた恐竜たちもシワシワになってしまったらしい。
「ドラマや映画なんかでも、出産シーンは見るけど、アフターは描かないじゃない? 時間が経てば元に戻るんだけど、初めて見ると結構ショックだし、ふたり目でもやっぱり衝撃が走ったから、産む前に見るのは、やめといたほうがいいかも」
「そうなんですね。じゃあ、産んでから、見せてもらいます。シワシワ恐竜」
「直美ちゃん、自分でやってみたら?恐竜がトカゲに変身するの、笑えるよ。産むときしか、見るチャンスないから」
「亜子姉さん、予定日狙って絵を描いたってことですか?」
「ううん。たまたま。描き終わったら陣痛が来たの」
「で、そのまま恐竜つきで産んだんですか」
「そう。幸太大喜び」
「お医者さんにびっくりされませんでした?」
「そこは大丈夫。なんでもありのフリースタイルだから」
ひとり目を病院の分娩台で産んだ亜子姉さんは、ふたり目は「フリースタイル」で産める助産院を探したと言う。
「フリースタイルって、どういうことですか?」
「立って産んでもいいし、座って産んでもいいし、もちろん寝て産んでもいいし。縦でも横でも、動き回って、楽な姿勢を探って、いよいよってときに、一番力を入れやすい形でいきむ感じ」
立ったり座ったり、出産のスタイルにバリエーションがあるのかと直美は驚く。
「成り行き任せっていうか、体の声に従うっていうか。分娩台に固定されてなくて体の自由がきくから、自分主導で産めるって言ったほうがわかりやすいかな」
自分主導で。
予定日が来るまで、とにかく無事に過ごそうと直美は「守り」の意識が強くなっていたが、妊娠出産に「攻め」の要素があったとは。
深い。そして面白い。
「マタニティビクス」の文字が目に留まったのは、亜子姉さんと会った数日後だった。自宅から最寄り駅に向かう道の途中の雑居ビルの3階の窓に、プリントアウトらしき「マタニティビクス」が1文字ずつ内側から貼りつけられていた。
貼り紙の向こうに踊る妊婦たちが見え隠れする。お腹だけが大きくせり出したタツノオトシゴ体型の妊婦集団が、「あんなに動けるの?」と驚くような激しさで踊っている。
ノリのいい音楽とともに地響きのような足音がこぼれている。前を通りがかったら思わず見上げてしまう音量だ。これまで直美が気づかなかったのは、通勤時間とレッスン時間が重なっていないからかもしれない。
2階に入っているテナントは迷惑しているのではと心配したが、集合ポストの表示を見ると、2階と3階は同じ社名となっていた。2階が事務局で3階がダンススタジオなのだろうか。
誘われるように2階へ上がる。エレベーターがなく階段だ。ズンズンダダダの地響きが大きくなる。体は重いのに、リズムにつられて足取りが弾んでくる。妊娠したらあれもこれもできなくなると思っていたが、フタを開けてみると、逆だった。
出産まであとひと月ほど。男でもない、女でもない、妊婦という性を楽しめるのも今のうちだ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第52回 伊澤直美(18)「受精卵だった頃の名残」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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