第67回 佐藤千佳子(23)この国の損失
春を迎えたノマリー・アントワネットの庭は、チューリップ畑になっていた。童謡でおなじみの赤白黄色を始め、ピンク、オレンジ、さらにはそのグラデーションになったものや花びらの先がフリルのように波打っているものもある。
「佐藤さん、いいときに来てくれて、うれしい。今が一番いい季節なの」
千佳子のカップに紅茶を注ぎながら、野間さんが言う。いつ訪ねても野間さんは言うのだ。いいときに来てくれた、と。紅茶の砂糖にスプーンを添えるさりげなさで。
「私一人のためだけに咲いてもらうの、貸切公演みたいでもったいなくて」と野間さんが言い、
「ふたりでも贅沢ですよね」と千佳子は紅茶とともに庭の眺めを味わう。
冬の間は露を拭ったサッシ戸のガラス越しに庭を見ていたが、サッシ戸を開け放つのが心地良い季節になった。時折風が吹き込み、庭のにおいを運んでくる。
「ありがたいです。富山に行かなくてもこれだけのチューリップを見られるなんて」
「このチューリップ、富山から迎えたの。富山県のトナミ市ってとこ」
「トナミ」と聞いて、千佳子は漢字を想像する。
「富山の富に波って書くんですか?」と尋ねると、
「波は合ってるけど、との字は石偏に……」
野間さんは少し考えて、「励ますの左側」と言った。
「石偏に励ますの左側」と呟きながら、千佳子は「砺」の字を人差し指で空書きしてみる。続けて「波」を書き、「となみ」と読み上げた。
「読めないよね」と野間さんが言い、
「覚えました」と千佳子はうなずく。
砺波市。富山県にある、チューリップが咲く町。
チューリップ祭りが中止になって、会場を彩るはずだったチューリップが行き場をなくし、クラウドファンディングで受け入れ先を募っていたのと野間さんが紹介を続ける。
「届いたときは蕾をギュッと閉じて、強張ってるみたいに見えたの。庭に植えて1週間くらい経ったら、蕾が次々と開いてね。暖かさに誘われたからなんだろけど、心を開いてくれたみたいで、うれしくなっちゃった」
横浜に根を下ろした砺波のチューリップが結婚で盛岡から出てきた自分に重なり、千佳子は目の前のチューリップに同志のような親しみを覚える。
知らない土地に連れて来られても、胸を張って自分を咲かせているチューリップたち。
「チューリップ祭りが中止になって、誰かがクラウドファンディングを立ち上げて、それをたまたま私が見つけて、富山から春のおすそ分けがうちに届いて、面白いご縁だよね」
人と人を遠ざけたウイルスが、一方で、つながるはずのなかった人と人を結びつけ、その端っこに、今、千佳子も連なっている。
この春の出来事かと思ったら、野間さんが砺波市からチューリップを迎えたのは一昨年のことで、花を終えた球根を取り込み、秋になるとまた植えているのだという。縁あってノマリー・アントワネットの庭を彩ることになったチューリップたちは横浜で3度目の春を迎えている。
「で、話って?」
野間さんに聞かれて、千佳子はここに来た用を思い出す。「男女っていつから逆転するの?」の質問を誰かにぶつけるならと考えて頭に浮かんだのが、野間さんの顔だった。
娘にこんなこと聞かれたんですけどと話すと、「ふーちゃんて、やっぱり頭いいよね」とほめられた。
文香の中学2年の学年末テストの成績は3クラス100人ちょっとの学年で27位だった。小学校のときは真ん中辺りにいたから、中学校に上がってから少し浮上したことになる。
順位が上がったのは、文香が勉強に力を入れるようになったからではなく、「できる子は中学から私学行っちゃったから」ということらしい。中学受験した子たちが抜けた分、くり上がったというわけだ。
「頭いいんだかよくわからないんですけど、時々ドキッとすること言うんですよね」と千佳子が言うと、
「まだ中学生なのに、この国のおかしなところに気づけているのは、えらい」と野間さんは言った。
野間さんの言葉には迷いがなくて小気味いい。それでいて押しつけがましさがないから、気持ちよくうなずいてしまう。語尾がモニョっとなりがちで、自分でも何を言おうとしているのか見失うことがある千佳子は、こんな風に話せたらと憧れる。
野間さんは、今はパートの同僚だが、数十年前は大手の外資系広告代理店の営業職でバリバリ働いていた。ビジネス誌の「月刊ウーマン」に見開きでインタビューされたこともあった。ダンナさんの海外赴任について行くことになり、会社を辞めた。会社との約束があったわけではないが、日本に戻って来たら復職するつもりだった。戻れる自信もあった。けれど、2児の母になって帰国した野間さんの復職をダンナさんが渋った。下の息子さんが小学校に上がったときには、元の会社に野間さんの戻れる場所はなく、他の会社にも野間さんが求められる場所はなかった。
野間さんがどこの大学を出たかは聞いていないが、文香の受験情報を集めていると名前が出てくる難関大学のどこかなのだろうと千佳子は想像している。
「受験も就職も男の子と同じように競い合ってきたのに、そこから降りる選択を迫られるのは、圧倒的に女子なんですよね。せっかくつかんだポジションから一旦離れてしまうと、同じところにはなかなか戻れないなんてフェアじゃないし、女の子は頑張り損ですよね」
思いつくままを口にしながら、わたしそんなこと考えていたんだと千佳子は意外に思う。学歴というものを得るために人一倍努力したわけではない。むしろ、そんなものあっても使うところがないと親や祖父母に言われて育ってきた。だから、「頑張り損」なのは千佳子自身のことではない。これから高校受験、大学受験、さらには就職活動を控える文香のことだ。
「頑張り損か」と野間さんは千佳子の言葉を繰り返してから、「でも、私たち、ずっと頑張ってるよね?」と続けた。
「ずっと頑張ってますか?」
「うん。結婚してからも。子どもを産んでからも。むしろそっちのほうが頑張ってるかも。PTAなんかやるとさ、優秀なママがゴロゴロいるじゃない? 優秀っていうか、有能かな。仕切りのプロとか経理のプロとかスケジュール管理のプロとか。コピー書いてましたとか、デザインやってましたとか。私たちで会社やれちゃうんじゃないって」
千佳子の頭に何人かのママの顔が思い浮かぶ。小学校で読み聞かせのボランティアグループに参加したとき、文章を書くのも絵を描くのもパソコンでレイアウトするのも「お金取れるんじゃない?」というレベルの人たちがいた。前にいた会社や前にやっていた仕事を聞いて、なるほどと納得した。PTAや学校関係のボランティア活動は、時間と労力だけでなく、「能力」の持ち寄りで成り立っているが、メンバーによっては、やたらクオリティの高いチラシやポスターやイベントが組み上がる。
「出産や育児を仕事を辞めて、それっきり専業主婦だったり、パートだったり。能力も意欲もあって、段取りスキルとコミュニケーション力もあって、最強じゃない? なのに、採用面接では、何もして来なかったんですねって言われる。学歴や職歴は履歴書に書けるけど、家事や育児やPTA活動は対価も評価も受け取れない。キャリアを離れた間に頑張ったことがなかったことにされて、どんどん差が広がって、人材が埋もれていっちゃう。それって、この国の損失だと思うんだよね」
「この国の損失」と千佳子は口の中で復唱し、庭のチューリップに目をやる。土を割り、茎を伸ばし、蕾を開いたチューリップがある一方で、芽を出さないまま土の下で眠っている球根もあるのだろう。花を咲かせる力はあるのに。確かにそれはもったいない。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第68回 佐藤千佳子(24)「透明人間にされたわたしたち」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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