第45回 伊澤直美(15) 「良かれ教」の困った人たち
「今日って在宅?」
朝食の後のお茶を飲みながら、イザオに聞くと、「そのつもりだけど」と答えがあった。
「そっかー」
直美の声に落胆を感じ取ったイザオが、「うちにいないほうがいい?」と聞いた。在宅かぶりを避けたいという意味に取ったらしい。
「そうじゃなくて。わたし今日出社なんだけど、イザオも会社出るなら一緒に行こうと思って」
「え? もう、体きつくなった?」
「そうじゃなくて」
そうじゃなくて。そうじゃなくて。
否定してばっかりだなと直美は思うと同時に、まさにこの「そうじゃなくて」に手を焼いているのだとあらためて気づく。
イザオと一緒に出社したいのは、一人で電車に乗りたくないからだ。体が重いわけではないが、気が重い。ふんわりしたラインの服を着ても目立つお腹の膨らみ。マタニティーマークをぶら下げなくても、「お腹に赤ちゃんがいます」が一目瞭然の妊娠7か月。座席の前に立つと、席を譲られる。立たせてしまうのは申し訳ないので、立っている人たちに紛れ込む位置に立つようにしている。
立っていると、まわりの人たちが手元のスマホや本に視線を落としながら、それとなく気を配ってくれているのを感じる。電車が揺れると、そのことがはっきりとわかる。ゆるく向けられていた「気」が一斉にピンと張りつめて直美に向けられ、「ぐらついたら受け止める!」という意思に囲まれる。咄嗟に手を差し伸べられることもある。潜在的ボディーガードの壁に守られている。
他人に無関心だと言われている世の中の空気は、実は温かく、いざというときに動けるように普段はアイドリングしているだけなのだと気づいた。子どもが産まれて赤ちゃん連れで電車に乗ることになっても見守ってもらえるのだと安心できた。ありがたい。心強い。
だが、お腹が大きくなるにつれ、配られる気持ちのサイズも大きくなり、「お腹の赤ちゃんを守らなくては!」の思いが強すぎる人が現れるようになった。
例えば、席を譲らない人に、「あなたの前に立っている方、妊婦さんですよ」とわざわざ教え、それでも席を立とうとしないと、「譲ってあげなさい」と圧力をかける人。直美はそこまでして座りたくはないのだが、せっかくの厚意を邪険にはできない。親切心で言っている人、運悪く言われてしまった人、どちらにも申し訳なく、妊婦ですみませんという気持ちになる。
いたたまれなくなって次の駅で降り、一本後の電車を待つ。ホームのベンチに腰を下ろし、何やってんだろとため息をつく。座ると確かに楽なのだが、立ち上がるのが億劫になる。だから、座れたほうがいいとも言い切れない。
お腹が大きくなると、ますますお節介を焼かれるのだろうかと思うと、朝食のテーブルから立ち上がる腰が重くなる。
とくに今朝は。
昨日の朝の電車で食らったダメージをまだ引きずっている。
いつもはラッシュ時を避けて9時台の電車に乗るのだが、朝一の打ち合わせに間に合うよう、久しぶりに8時台に乗った。まわりの人と体のどこかが当たる混み具合。直美の右隣に立っている若い女の子がスマホゲームに夢中になっていた。肘が脇腹に当たっていたが、身動きできないので、そのままにしていたら、直美の左側に立っているスーツ姿の男性が、「当たってますよ」と注意してくれた。髪はロマンスグレー。60代半ばぐらい、父親と同じくらいだろうかと直美は思った。胸の前で小さく折り畳んだ経済新聞を読んでいた。
若い女の子は返事をしない。彼女の耳にイヤホンが差さっているのに気づくと、男性は、さっきより大きな声で言った。
「肘が赤ちゃんに当たってますよ」
スマホ画面を見ている女の子は自分に声をかけられていることにまだ気づかないが、直美たちから数メートル離れた乗客の視線がこちらに向けられた。
ついに男性は、女の子からイヤホンを抜いた。
「何ですか?」と女の子が男性をにらみつけた。
「あなたの肘、赤ちゃんに当たってますよ」
「は?」
イヤホンを抜かれた女の子は、状況がわかっておらず、言いがかりをつけられたようにムッとしている。
わかるよ。わたしだって、同じことされたら、ムッとする。
女の子は直美のお腹の膨らみに気づいて、「ああ」と飲み込み、男性に向かって、「すみません」と言った。
「私じゃなくて、こちらのお母さんに謝りなさい」
男性は部下のミスを叱る上司の口調になっている。
それ以上言わないで。そっとしていて。
「いいです。大丈夫です。ほんと大丈夫です。肘が当たってたの、お腹じゃないですし」
黙っていたかったが、早くこの場を収めたかった。取りなしたつもりだったが、「そういうわけにはいきませんよ」と男性は引き下がらなかった。
そういうわけにはって?
わたし、謝罪なんて求めてないんですけど。
「すみません」
直美に向かって女の子が言った。言わせてしまった。
「こちらこそすみません」と直美が言うと、
「お母さんは謝らなくていいんです」と男性に叱られ、
「すみません」とまた謝った。
「気をつけてくださいね。あなたもそのうちお母さんになるんだから」
男性のダメ押しの一言に軽くうなずいて、言いたいことはそれだけですねというように、女の子は抜かれたイヤホンを差し直した。男性も経済新聞に目を戻した。なんとなく向けられていた乗客の目と耳が元の位置に戻った。
何もなかったかのような車内。直美だけは動揺から戻れず、逃げるように次の駅で降りた。
「適量って大事だよな」
直美の話を聞き終えたイザオが言った。ありがたい気遣いも、度を越すと、ありがた迷惑になる。
「そうなの。向こうは良かれと思って言ってるから、そこまでしていただかなくてもって断ると、こっちの器が小さいみたいに受け取られちゃうんだよね。スマホに夢中になってまわりが見えてないよりタチ悪いよ、良かれ教の人たちって」
「良かれ教ねぇ」
イザオはあまり遭遇したことがないのだろう。良かれ教の困った人たちは、自分より弱そうな人、言いくるめやすそうな人に近づいてくる。その証拠に、お腹が大きくなるにつれ、遭遇率が上がっている。
経済新聞の男性とも、いつまた同じ電車に乗り合わせるかわからない。
「じゃあ、今日一緒に行こうか?」
部屋着のイザオが着替えようとする。
「付き添いのためだけだったら、いいよ」
「じゃあ、もし、良かれ教の人に遭遇したら、知らせて。ハラミの好きなスフレチーズケーキ買っとく」
「何それ?」
「埋め合わせ」
「なんでイザオが埋め合わせるの?」
「俺も久しぶりに食べたいし」
イザオと話していると、気持ちが軽くなった。良かれ教の人に会わなければ良し。会ってしまっても、それはそれで良し。スフレチーズケーキを食べられる。
そう言えば、赤ちゃんが泣くと同乗している乗客全員が次回ディスカウントを受けられるという試みを海外の航空会社がやっていた。泣く赤ちゃんの人数に応じて割引率が上がるので、赤ちゃんが泣くたびに機内が歓声に包まれたという。
不運も考え方次第でラッキーに変えられる。そう思わせてくれる夫に出会えたのは、ラッキーだ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第46回 伊澤直美(16)「母親って『良かれ教』の教祖だから」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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