第74回 佐藤千佳子(26)正解も正義もひとつじゃない
野間さんの気持ちは1週間どころでは冷めなかった。千佳子がパートを休んでいるのは家の事情だと思っているのでパセリ問題のその後をせっせと報告してくれるのだが、意地が燃料になった文面は時間とともに熱くなっている。本部に戻った前の店長にアポを取ってもらい、「パセリのクリスマスツリーは私たちがやりました!」のプレゼンをしたものの反応は薄く、「この会社は根っこから変えないと!」と息巻くメールは巻き物のように長かった。
何と返信しようと思いあぐねるうちに2日経ち、明日からはまたシフトに戻るのだが、気が重い。野間さんと働くのが楽しかったのに、野間さんが行きたくない理由になる日が来るなんて。
このまま、やめてしまおうか。
野間さんを避けて午前中だけシフトに入ることも考えたが、そこまでしてあの店で働き続けたいとは思わない。愛着もあったしアイデアも出したけれど、店にしてみれば、ただの労力なのだ。シフトを埋めるコマなのだ。店長にパセリの手柄を横取りされたこと、わたしだって根に持ってるじゃないのと気づいて、またげんなりする。
いつもはパートのついでに買い物をしているが、買い物のためにわざわざ出かけなくてはならない。家の近くにスーパーはあるが、従業員割引がないと割高に感じる。かといって、パートを休んでいるのに買い物だけ行くのも気がひける。野間さん、余計なことしてくれたなと恨めしい気持ちにもなってくる。
気晴らしを兼ねて、歩いて駅前のスーパーに向かうと、信号を待っている白杖の人が見えた。カズサさんだ。
「カズサさん」と近づいて名前を呼ぶと、
「佐藤さん」と声で気づいてもらえた。
スーパーでシフトに入っていたときにカズサさんの買い物に付き添ったのが出会いだった。「合い挽き肉」がスマホのメモで「逢い引き肉」と変換されていた。声で文字を入力するので同音意義語を間違えやすいのだとカズサさんは言った。変換ミスは千佳子もよくやるが、カズサさんがそれに気づくのは千佳子の何倍もの時間がかかるのだろうと想像した。
「昼下がりの逢い引き」を笑い合ったあの日が二度と帰らない日のように思えて、鼻の奥がツンとする。
あの店での野間さんとの思い出はたくさんあるが、野間さんだけが思い出じゃない。こんなことでやめるなんて、もったいない。
「佐藤さん、どうしたんですか」
「カズサさん、今お時間あったら、ちょっと、お茶しませんか」
「だったら、パンケーキ食べません? 見つけたんです、『きりかぶ』のパンケーキ」
ブルーベリーソースたっぷりのパンケーキが千佳子の頭に思い浮かぶ。そのパンケーキを口にしたことはない。バスの中から見た看板の黒板アートで知っている。いつか食べたいと思い、ようやく訪ねてみると、積み木のような「kirikabu」の文字が木の壁に貼りつけられていた可愛いお店は、ドラッグストアに変わっていた。
もっと早く来れば良かったと気落ちした千佳子の目の前に、カズサさんがいた。「きりかぶ」は駅から2つ目のバス停の前にあり、店から漂うパンケーキの香りが、カズサさんがバス停を見つける目印だった。店がなくなり、においが消え、目印を見失ったカズサさんは立ち尽くしていた。
「あのお店と同じにおいがしてたんです。新しい場所に引っ越したのかもしれません。ちょっと腕つかまらせてもらっていいですか」
カズサさんは千佳子の腕をつかむと、駅前のスーパーを裏へ抜ける道に入った。
「ボクシングジムの近くなんですよ」
カズサさんは言い、しばらく歩くと、サンドバッグを叩き込むような音とかけ声が聞こえてくる建物があり、窓ガラスにジムの名前が入っていた。
「ほら、においがしてきました」
カズサさんがそう言ってから十歩ほど歩いて千佳子の鼻が追いつき、目指す先に「kirikabu」を貼りつけた壁が見え、その前にパンケーキが描かれた黒板が立っていた。音目印とにおい目印で着いた「きりかぶ」は、元々そこにあったかのように駅裏の住宅街になじんでいた。
重みのある木のドアを開け、テーブル席でカズサさんと向かい合った。メニューを見ずにブルーベリーのパンケーキを注文し、紅茶とセットにした。
マスクを外したカズサさんの唇は鮮やかな赤に彩られていた。
「カズサさん、もしかして、その口紅」
「そうなんです。佐藤さんに一緒に選んでもらったやつです。ちゃんと塗れてます?」
「バッチリです」
買い物だけのつもりで、眉毛は描いたものの口紅を塗って来なかった千佳子は、無防備な顔の下半身が恥ずかしくなる。パートに行くときはアイシャドウも塗り、マスクの下もメイクしていたが、人前に出なくなると、どうでもよくなり、もう何日も口紅のふたを開けていない。
文香と幼稚園が一緒だった晴翔くんのママは「女は先っぽに宿る」と言っていたが、「女は先っぽから抜ける」のもまた事実だ。
あの日、かつて「きりかぶ」があったドラッグストアの自動ドアを開けて、「とびらを開く色」の口紅の新色をカズサさんと試し、買った。
その化粧品ブランドの口紅を千佳子が使うようになったのは、ハーブのマイさんがきっかけだ。野菜売り場の見切り品コーナーの前で交わした会話が蘇る。「ママだからきれいでいたい」と迷いのない言葉を放つマイさんの赤い唇が眩しくて、スーパーの隣のドラッグストアで口紅を求めた。
ブルーベリーのパンケーキをおいしいおいしいと言い合いながら食べている間は野間さんのことを忘れていた。
「やさしい味ですね」とカズサさんが言った。今の千佳子には、そのやさしさがしみた。良い材料を使って丁寧に作られたおいしいものというのは、それだけで寄り添い、いたわる力があるのだ。
「わたしがカズサさんを誘ったので」と千佳子が財布を出すと、そんなの悪いですとカズサさんは遠慮したが、
「次は私にごちそうさせてくださいね」と出しかけた財布をしまった。
駅前まで歩きながら、「佐藤さん、何か話したいことあったんじゃないですか」と聞かれた。
できるだけ感情を交えず、起こった出来事を話した。パセリにリボンを巻いてクリスマスツリーに見立てて売り出したこと。それが売り上げに少し貢献したこと。思いついたのと実行したのは千佳子と野間さんだが、店長だけが本部に表彰されたこと。
「パセリのクリスマスツリー。そんなのがあったんですね」
「店頭に並んだのは2週間ほどなので、その間にカズサさんが来店されたかどうかわかりませんが」
「でも、私の場合、お店に行っても、誰かに教えてもらわないと、わからないですね」
言われてみればそうだった。ネットチラシで告知したわけではないし、店内アナウンスでも知らせていない。店頭にPOPは立てていたが、視覚を使って買い物しないカズサさんには、その情報は伝わらない。
「発想は素敵だと思いますよ。リボンを巻いてクリスマスツリーにするのって、可愛いですよね」
「そうなんです。ちょっとしたことで気持ちが明るくなるし、楽しくなるんですよね」
それでいいじゃないのと心の声がささやく。手柄にするようなことじゃない。お客さんが喜んでくれたら、それでいい。パセリにリボンを巻いだだけなんだから。
「もし、今年のクリスマスにもやることになったら、カズサさんにお知らせしますね」
「ありがとうございます。リボンが根元についてると、目印になりますね」
目印という言葉にハッとした。
根元に巻いてあるリボンを目印にパセリを見つける人は、そのリボンがなくなったら、パセリを見失ってしまう。
リボンを巻けばいいってもんじゃない。
野間さんとも千佳子とも違う景色をカズサさんは見ている。
正解はひとつじゃない。
正義はひとつじゃない。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第75回 伊澤直美(25)スポットライトの当たる場所が変わっただけへ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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