第106回 伊澤直美(36)サレ妻の逆襲
マタニティビクスで一緒だったサエさん。
太りやすい体型らしく、お腹が膨らむスピードで全身もボリュームを増していったが、整った顔立ちをしていた。痩せたら綺麗だろうなと思っていたが、モデルをやっていたのだろうか。
一緒にレッスンを受けたのは数えるほどしかなかったが、強烈に覚えている。
レッスンの最初にインストラクターが一人一人に体調を聞く時間があり、「眠れません」「背中がかゆいです」「吹き出物がひどいです」「おへその周りに毛が生えてきました」といった妊婦特有の悩みを共有し、アドバイスをもらっていたのだが、ある日、
「サレ妻になっちゃいました」
と衝撃の告白をしたのがサエさんだった。
「聞かれちゃうとマズいかな」と張り出したお腹をさすると、
「赤ちゃんは全部わかってる。吐き出してラクになるんだったら、ここに置いて行って」とインストラクターが力強く言った。
「怪しいなって思ったのは、お腹が膨らみかけたときで」
つわりで制汗剤のにおいがダメになったのに、夫が制汗剤を使うようになったのだが、それが浮気のにおいを誤魔化すためだったとわかったという。
「ありえない!」と悲鳴のような驚きの声が上がった。
「もう笑っちゃいますよねー」とサエさんは明るく言ったけれど、ちょっとつついたら泣き出しそうなくらい、いっぱいいっぱいになっているのが伝わって、直美のほうが泣きそうになり、妊娠すると涙もろくなるってほんとだなと思ったのを覚えている。
お腹を膨らませたプレママたちは、「自分が同じことをされたら」と裏切られた痛みを分かち合い、サエさんと共にうろたえ、怒った。そして、「ダンナは許せないけど、浮気ごときにお産を邪魔されてたまるか!」「とにかく今はお産のことだけ考えよう!」と団結した。泥棒に部室を荒らされた運動部が、動揺しつつも「今は目の前の試合に集中しよう!」と円陣を組んで気合を入れ直すように。
その日、ステップで床を踏み鳴らす一同の足音はいつも以上に勇ましかった。
サエさんは直美よりも予定日がひと月早く、続報は聞けなかったのだが、「サレ妻のサエさん、どうなっただろうね」とビクス仲間の間で時々噂していた。産後のベビービクスにも現れなかったので、「それどころではないのかも」と憶測も飛び交った。
「産んでからが大変なのにね」
「でも一人で育てるのも厳しくない?」
同情しつつ、ゴシップ記事を後追いするような好奇心が見え隠れした。うちはそんなことにならなくて良かったと無事を確認しあっているようなところもあった。近くで災害が起こった後にハザードマップを広げて、うちは大丈夫と安心しているような。
サエさん、どうしてるだろ。
アロマを使ったエステサロンを自宅でやっているからインスタ見てねとショップカードをもらったのだが、そのカードが見当たらない。
名字、何だったっけ。
五十音順で一番最初に名前を呼ばれていた。「あ」で始まる名前。
有明のりのイメージとともに「ありの・りの」という名前が頭に浮かび、そこから「有野」の名字を思い出した。
「りの」は、お腹の子が女の子だとわかり、サエさんが用意した名前だ。「覚えやすいでしょ」とサエさんはノリノリだったが、直美には有明のりの印象が残った。
本当にあの名前をつけたのだろうか。
保育園でインフルエンザが流行り、優亜を家で見ながら在宅勤務の午後。昼寝の優亜を寝かしつけると、直美はスマホを開く。
インスタで「りのママ」「アロマ」「エステ」で検索すると、いくつかのアカウントがヒットした。
ひとつずつ見ていくと、いた。
記憶のサエさんより、さらにひと回り大きなサエさん。証明写真のサンプルのモデル時代からは、ふた回りほど大きい。
サエさんも子どもも顔出ししている。予定日通りだったら、優亜よりひと月早く、12月の終わり生まれで、1歳2か月を迎えたばかりだが、優亜よりずいぶん大きく見える。
弾けるようなサエさんの笑顔の写真に「2人目がお腹に入りました!」の報告があった。
「なんだ、してるんだ」
思わずつぶやいて、サエさんを強烈に覚えていた理由に思い当たる。
サエさんの歳は直美より5歳ほど下、30歳過ぎで、ダンナさんと出会ったのは「今より10歳若くて10キロ痩せてた頃」だと言っていた。だから、出会った頃のサエさんのような若くてスリムな人に浮気したのだろうと直美もビクス仲間たちも勝手に想像したのだが、相手は夫の高校時代の同級生だった。
しかも、既婚で子持ち。
「私以外の人とはできるんだなって」
サエさんがぽつりと漏らした一言が直美に刺さった。
両親学級では「遠慮せずコミュニケーション取ってくださいね」と指導された。妊娠で途絶えたままセックスレスに突入する夫婦が多いのだと。イザオは神妙な顔をして隣で聞いていたが、その日も、それからも、手をのばしてこなかった。
マタニティビクスでも、よくその話題になった。「しても大丈夫ですか?」と質問する人がいたら、あの夫婦には今もあるんだなと思った。「してますか?」とインストラクターが一同に聞いたこともあった。まわりの反応をうかがうと、うなずいている人がほとんどで、直美もうなずき、していることにしておいた。
だから、サエさんが「私以外の人とはできるんだなって」と言ったとき、その短い言葉から直美は原稿用紙一枚分ほどの事情と葛藤を読み取った。妊娠を理由に拒んだわけではなく、なんとなく夫婦の間から消えたものが、よそに行っていたのだ。
他の人とできるんだったら、わたしとしてよ。
イザオに浮気されたわけではないのに、自分のことのように苦しかった。
なければないで仕方がないと諦めたものが、あるところにはあると知ったら、せっかく折り合いをつけておさめた気持ちがざわざわと騒ぎ出す。
今年はやらないと聞いていた誕生会が実は開かれていて、自分が呼ばれていないだけだったと後で知った小学3年生のときの苦い思い出が蘇り、妊婦だった直美をもう一度刺した。
優亜がお腹に入った日を最後にイザオとは体を重ねていないが、以前のように「どうしてしないの?」と思い詰めることはなくなった。優亜という存在に満たされているのだろう。けれど、同じ時期に産んだビクス仲間やママ友から「2人目」の報告を聞くと、「わたしはあれから一度もしていないけど、この人は、一度はしたんだ」と思ってしまう。
よりによって、あのサエさんが。
仲間だと思っていたのに一抜けされた気分になり、自分も安全な場所からサエさんの災難を他人事のように眺め、優越感のようなものを抱いていたのかもしれないと直美は思い至る。
うちもしてないけど、まだ浮気されてないだけマシ、と。
なのに、今のサエさんのすべてを手に入れたような笑顔は何なのだろう。サレ妻時代を跳ね返してお釣りが来るような、絶対的な自己肯定感に裏打ちされた笑顔だ。
ダンナさんを改心させたのか。
それとも、新しい出会いがあったのか。
《桜が咲き始めましたね。素晴らしい引き寄せの連続で、これまで種を蒔いてきたことが、今年に入ってからどんどん花開いているのを感じます。今日も私を咲かせます✨》
前向きを煮詰めたようなワーディングに既視感を覚える。
もしかして……。
過去の投稿を見ようと画面をスワイプした手が止まった。
《ケイティさんがネットニュースになったときから気になっていたひまわりバッグ。ついにお迎えしました✨》
次の物語、連載小説『漂うわたし』第107回 多賀麻希(35)「見知らぬ誰かを待ちながら」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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