
第208回 伊澤直美(70) 今日がいちばん新しい
「ママ、なきたいおかおしてる」
優亜のその言い方が可愛くて、張り詰めていた気持ちが緩んだが、涙はこぼれなかった。大丈夫。泣きたい気持ちは引っ込んだ。泣きたい顔も。
「ママのコートとスマホ取ってきてくれる?」
「わかった」
リビングに引き返した優亜は直美のコートとスマホを持って戻ってきた。
イザオは状況を察しただろう。「俺は行かない」と強がった手前、パパも行こうかなとは意地でも言わないはずだ。それに、今出かけたら、また洗濯物を干しそびれて、3回目を回すことになる。
「行ってきます」
リビングのイザオに聞こえないくらいの小さな声でつぶやいて、家を出た。できるだけ音を立てないように鍵を回して閉めた。
子どもを産む産まないでもめて、イザオが出て行ったときは、リビングのドアが乱暴に閉められ、その勢いで棚の上に置いてあった「HAPPY」のオブジェが床に落ち、「H」と「APPY」に分かれた。
あのケンカがあったから、仲直りがあり、優亜がお腹に入った。
接着剤でくっつけた「HAPPY」は、生まれた優亜のおもちゃになり、再び「H」と「APPY」が離れ、「APP」と「Y」も離れた。今は優亜に遊ばれなくなり、棚の上に戻った。
元々は直美とイザオの結婚パーティーの受付に飾られていたものだ。夫婦になったときから、ずっと自分たちを見ている。
今日のすれ違いも。

マンションのエントランスを出て、優亜と手をつないで歩き出す。不機嫌なイザオが遠ざかる。
「どこ行こっか?」
「きりかぶのぱんけーき、たべる!」
待ち構えていたような元気な声が返ってきた。去年の夏、イザオと3人で行った横浜のパンケーキ屋「kirikabu」のことだ。
直美がマーケティング調査のオンラインインタビューで知り合った佐藤千佳子さんにハーブマルシェのプレゼンをされた店。
レモンのパンケーキがおいしくて、もう一度食べに行きたいけれど、アイタス食品が出展するかどうかの返事を先延ばしにしていて、佐藤さんと鉢合わせしたら気まずいなと迷っていた。思い切って一家で訪ねたら、佐藤さんが娘の文香ちゃんと来ていた。佐藤さんからお下がりでいただいたワンピースを毎日のように着ていた優亜は、その日も着ていた。
どういうきっかけだったか、文香ちゃんと優亜が文末に「たね」をつけて話しだし、どんどん楽しくなって「たね」「たね」と言い合った。
やったね。
全部食べたね。
おいしかったね。
笑い過ぎたね。
来て良かったね。
優亜は、ずっと笑っていた。店を出て、バイバイをするときになって、べそをかくまでは。
「やったねの中に種が入ってる!」と佐藤さんが気づき、ハーブマルシェの返事を急かされるのではと直美はそわそわしたが、企画が保留になったとその場で聞いて、ほっとした。
そんなことを思い出していたせいか、kirikabuから出てきた女性が佐藤さんに見えた。直美と優亜は店に向かう坂を上っている途中で、距離があったから見間違いかもしれないが、隣にいる女性はmakimakiさんに見えた。ふたり揃って見間違えるなんてことがあるだろうか。
そう言えば、ハーブマルシェのプレゼン資料のイラストを描いたのがmakimakiさんだと佐藤さんから聞いていた。休日にパンケーキを食べに行く仲なのかもしれない。
ドアを開けると、一日分の幸せを濃縮したような甘い香りに包まれた。今日ここに来れて良かったという温かな肯定感が膨らむ。前回と同じテーブルに着くと、
「よんで!」
優亜が壁際の棚に置かれた布絵本を見つけて、持ってきた。表紙にタイトルが刺繍されている。
『日曜日と月曜日がケンカした』
よりによって、ケンカの話か。優亜はカタカナを覚え始めたところで、カ行は最初に覚えた。「ケンカ」は多分読める。
「それ、私が作ったんです」
水とメニューを持ってきた女性が教えてくれた。いつもの人だ。「キルトが趣味で」とつけ足した。
「お話は、うちのお客様が作られたんです。朗読会で聞いて、面白いなと思って。こちらにペンネームが」
女性が裏表紙を指差して示す。優亜が持っている布絵本を直美が持ち上げると、「十文字パセリ」と刺繍されている。
「十文字パセリ?」
パセリと言えば、あの人だ。

オンラインでインタビューしたとき、生き生きと「パセリの花束」の話をしていた佐藤さんの姿を思い出す。眉もメイクも薄いのに、口紅の赤が妙に主張していて印象に残った。
もしかして。まさかね。
ついつい佐藤さんにつなげてしまう。
「その作者の方、ついさっき、いらしてたんです」
「佐藤さんですか?」
「え?」
「さっき、お店から出てくるのが見えた気がして」
「あ、そっか。ご存知でしたね。あの佐藤さんです」
女性が「つながった」という顔になった。
「初めてこちらに来たとき、佐藤さんと一緒だったんです。その後、この子と来たときも、偶然、佐藤さんがいらして」
「ふみかちゃんもいたよ!」
「そうそう。文香ちゃんもいたね」
「パパもいたよ!」
「うん。パパもいたね」
不機嫌なイザオを置いてきたのに、あの日の機嫌のいいイザオがついて来る。
「思い出しました。あのとき、『パンケーキパパン』の話、してましたよね?」
女性に言われ、そうだったと直美は思い出す。お気に入りの絵本に出てくるのとそっくりなパンケーキが運ばれてきて大喜びした優亜に「やったね」と文香ちゃんが言い、そこから「たね」「たね」となったのだった。
「パパ、おるすばんなの。おせんたくしてるの」
優亜が無邪気に言う。パパとママの気まずい状況をよくわかっていないのか、忘れてしまっているのか。
「今日、いいお天気だから、よく乾くわねえ」
女性がパパではなく天気をほめてくれ、直美は救われる。何かを察して、当たり障りのない受け答えをしてくれたのか、日頃から人間よりも森羅万象を語る人なのか。
直美は季節限定のさつまいものパンケーキを、優亜は「きりかぶのパンケーキ」を注文した。『パンケーキパパン』の絵本には、切り株の椅子に座って、みんなでパンケーキを食べる場面がある。焼き上がるのを待つ間、優亜に催促され、日曜日と月曜日がケンカする絵本を読み聞かせした。
一週間の始まりは日曜日だ、いや月曜日だと言い争っていると、他の曜日たちも口をはさみ、収拾がつかなくなる。「ぼくの上でケンカしないでくれ」とカレンダーがなげくが、ケンカは止まず、とうとう「そんなにもめるんだったら紙曜日を作る!」と怒り出す。曜日たちはあわてて、8つめの曜日が加わるのを食い止める。めでたし。めでたし。
そんな話だ。どうでもいいことでもめて、勝手に熱くなっている曜日たち。はたから見ると、馬鹿馬鹿しくて、共感できない。まるでわたしとイザオみたいだ。

優亜も「パパとママみたい」と思っているだろうか。
「優亜は、日曜日と月曜日、どっちから始まると思う?」
優亜に何か言われる前に質問した。日曜日か月曜日の二択なのに、優亜は「うーん」と腕組みをして考え込む。しわのないつるんとした顔の目と目の間にしわが寄る。
「保育園の一週間は月曜日から始まるね」
助け船を出したが、それでも優亜はしばらく考え、ついに口を開いた。
「ゆあちゃんのいっしゅうかんはね……」
そこでちょっと時間を置き、宣言するように元気よく続けた。
「きょうからはじまる!」
選択肢になかった答えが返ってきて、直美は「?」と面食らってから、「!」となった。
そのときテーブルが震え、スマホがメッセージの着信を知らせた。
《洗濯終わった》とイザオから短いメッセージがあった。
洗濯終わったから何?
一時間前なら、そう思った。自分にも余裕がなかったのがわかる。パンケーキのにおいと、お店の女性とのおしゃべりと、優亜の屈託のない言葉に、ぺしゃんこのパンケーキが膨らんだ。
《kirikabuで待ってる》と返事を送った。
新しい一週間が始まる。

次回12月13日に多賀麻希(69)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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