
第210回 多賀麻希(70) ページをひらけば
なるほど、その手があったか。
「じゃあお願いしよっかな」
喉元まで出かかった言葉を麻希は飲み込み、「大丈夫」と言った。
「そっか」と言うモリゾウの声がちょっと残念そうだ。
「本読み隊、興味あるの?」
「子どもの反応って、面白いからさ」
モリゾウの後ろ、結露で曇ったサッシ戸の向こうに広がる庭で、伊澤直美と義姉の伊澤亜子が連れてきた幼い娘たちが遊んでいた夏の日を麻希は思い出す。

あの日、不思議な歌を歌いながらクローバーを摘んでいた小さなお客さんに、いつの間にかモリゾウが加わっていた。ふたりにせがまれるままゾウになったり怪獣になったりした。時間を忘れてごっこ遊びに熱中するモリゾウが、彼のあるべき姿のように思えた。
モリゾウは子どもが好きなのだ。それ以上に演じるのが好きなのだ。
演劇からは長らく遠ざかっている。新宿三丁目のカフェでマスターから紹介されたときに舞台のチラシを手渡されたが、公演はすでに終わっていた。以来、公演は打っていないが、作・演出した『たとえこの雪が溶けてしまうとしても』を戯曲デジタルアーカイブに登録したいと最近話していた。
人前で演じたい気持ちもあるのだとしたら、読み聞かせはチャンスだ。モリゾウなら、おはなしに登場する動物たちになりきって読み聞かせをするだろう。
ママたちとも上手にコミュニケーションを取れそうだ。積極的に話しかけるわけではないが、適度な好奇心を向け、適切な相槌を返せる。共通の話題がなくても、快適な温度と湿度を保って会話ができる。
演劇というのは「受けの芝居」が大事で、自分のセリフをどう言うかより、相手のセリフをどう受け止めるかが難しいのだと駆け出しの役者たちが熱く語っていたっけ。映画の現場で知り合ったエキストラの子からチケットを買った小劇場の舞台の打ち上げで。もう20年近く前のことだが、モリゾウを見ていると、そのお手本みたいだなと麻希は思う。

誰といても、どこにいても、前からそこにいて、これからもそこにいるみたいに振る舞える。初対面の麻希の部屋について来て、そのまま住み着いた人なのだ。
だからこそ、一人で行かせたくない。モリゾウが居場所を作ってしまったら、余計に取り残されてしまう。
モリゾウと一緒に行くことも考えたが、それもやめた。ママたちにすんなりなじむモリゾウを見て、連れて来るんじゃなかったと後悔するだろう。
麻希は1年2組の読み聞かせを担当することになっていた。
読む本は熊本で子育て中の妹の奈緒に相談して決めた。保育園の5歳児クラスにいる姪っ子の奈々恵がくり返し読んでいる『パンケーキパパン』。小学1年生にはもう少し背伸びした本がいいかもと思ったが、読み聞かせに慣れない麻希には文章が短いほうがありがたい。
駅近くの住宅街にある「kirikabu」というパンケーキ屋にも『パンケーキパパン』が置いてあった。パンケーキ屋だからパンケーキの絵本を置いているのかもしれないが、壁際には他にも絵本が並べられていた。『日曜日と月曜日がケンカした』という手作りの布絵本もあった。
店内にはパンケーキのキルトも飾られていた。食べ物をパッチワークで描くのも面白いなと思った。最初に作るのはもちろんシュークリーム。そんな想像に心が躍った。
パンケーキと絵本と自分がつながったようで、本読み隊に気後れしていた背中を押されたように感じた。
そこに佐藤千佳子が一人で入ってきたのは誤算だったけれど。

佐藤千佳子は麻希とテーブルに広げた絵本に気づくと、「ここで選書しているんですか?」と声を弾ませて近づいた。
「『パンケーキパパン』、うちの娘も好きです!」
まるで今、パンケーキ屋に来てこの絵本を知ったばかりのように思われたが、「姪っ子のお気に入りの本で」とわざわざ説明するのも面倒で、そういうことにしておいた。
「この本、ユアちゃんも大好きなんですよ」
と言われ、ユアって誰?と思ったが、伊澤直美の娘の名前だと気づいた。あの親子とこの店で一緒になったことがあり、ユアがフミカになついたらしい。
結局、佐藤千佳子と隣のテーブルでおしゃべりしながらパンケーキを食べ、同じタイミングで店を出ることになった。坂を登ってくる母親と女の子が伊澤直美親子に見えたのは、彼女たちのことを思い出したせいだろう。
別れ際、佐藤千佳子に「12月の本読み隊よろしくお願いします」と念を押されたのは言うまでもない。
読み聞かせについては、なんとかなるだろうと思っていたが、心配なのは、その後の図書室だ。ママたちだ。それでも、代わりに行くというモリゾウの申し出を断ったことで、行くしかないと腹をくくれた。
いざ行ってみると、思っていたのとは違った。
まず、子どもたち。1年2組の教室に入ると、絵本を持った麻希の姿を見て、今日の本読み隊の人だと気づくなり、子どもたちが近づいてきて、麻希を取り囲んだ。
「誰ちゃんのママ?」
いきなり女の子から不意打ちの「ママ」を食らった。
「誰のママでもないよ。本を読みに来た近所の人」
すると、次の質問が飛んできた。
「なんのおしごとしてるひと?」
へーえ。女の人が仕事しているのが普通なのか。そんな感覚なのか。
なんと答えようかと考えた脳裏に、ひまわりドレスが現れた。裾にクローバーを刺繍したウェディングドレス姿の田沼深雪を見届けた帰り、ふわりと花びらを広げるように思い浮かんだデザイン。

「ドレス作ってる人だよ」
女の子たちがワオという反応をした。「ドレスだって」「すごいね」と顔を見合わせる。プリンセスのドレスを想像しているのだろうか。その様子を見て、男の子たちも期待の目で麻希を見る。
つかみは、いい感じ。
麻希が椅子に座ると、子どもたちは床に体育座りになった。
「今日読む本は、こちら。『パンケーキパパン』」
表紙を向けて題名を告げると、目の前の男の子が「パパン」と言いながら手を2回たたいた。他の子たちも「パパン」と真似をする。
麻希が「パンケーキ」まで言って黙り、目で続きを促すと、
「パパン」
元気な声と音が返ってきた。その一体感が楽しくて、笑い声が弾ける。ひとクラス分が合わさると、なかなかの音量だ。
「パンケーキ」
「パパン」
「パンケーキ」
「パパン」
「パンケーキ」
「パパン」
おいしいパンケーキを作るおまじない「パンケーキパパン」が登場するたび、麻希と1年2組の子どもたちのコール&レスポンスはどんどん盛り上がった。
「おしまい」と絵本を閉じると、名残惜しそうな視線が集まった。
もう1回、言わせてあげたいな。
「今日読んだ本は、パンケーキ」
「パパン!」
待っていましたとばかりに教室が沸いた。

教室を出たところで、1年1組の教室から出てきた女性が「すごくウケてましたね!」と声をかけてきた。
「何読んだんですか?」
「これです」と麻希が『パンケーキパパン』を見せ、
「『パパン』のところを子どもたちがやってくれて」と話すと、
「来月、1組でやってください」と頼まれた。
一緒に図書室に着くと、集まっているのは全員女性だった。
若く見える人もいるが、落ち着いた年代の人もいる。手分けして飾りつけや本の整理をしている。窓に画用紙のサンタクロースを貼っている女性に見覚えがあった。新宿三丁目のカフェでマスターが焼いたシュー皮に好きなものを詰めて食べたとき、佐藤千佳子と一緒にいた人。他の人が「サツキさん」と呼んでいて、そんな名前だったと思い出した。
サツキさんが麻希に気づき、「ご無沙汰してます」と画用紙のサンタを手にしたまま近づいた。
「あ、『パンケーキパパン』読んだんですね。あそこにもありますよ」
サツキさんが指差した先、ウォールポケットに納められたおすすめ本の中に同じ表紙があった。ウォールポケットは、もみの木をあしらっている。季節ごとに飾り替えているらしい。
「あれって手作りなんですか?」
「そうなんです。良かったら何か作ってください。あ、プロの方に気安く頼んじゃいけないですね。でも、もし何か飾れるものがありましたら」
「こないだパンケーキ屋さんで布絵本を見て、こういうのいいなって思ってたんです」
「もしかしてkirikabuさん? あそこ、おいしいですよね」
うちの子自慢もママという言葉も出ない。一体何を怖がっていたんだろうと拍子抜けする。
「マキマキさん、こっち手伝ってもらえます?」
佐藤千佳子に呼ばれた。1年1組で読み聞かせしていた女性と、大きなもみの木を手にしている。
「ありがとうございます。千佳子さんを連れて来てくれて」とサツキさんに礼を言われ、麻希は「え?」となる。連れて来られたのは、わたしなんですけど。すると、サツキさんは言った。
「千佳子さんが来てくれるの、久しぶりなんです。しばらく間が空いちゃってて」
そういうことだったのか。誘い方がちょっと強引だなと思ったが、ブランクを埋めるきっかけが欲しかったのかもしれない。
思い切って、来て良かった。来月も読む約束しちゃったし。来月って来年だ。
ページをひらけば、おはなしが始まる。続きが読みたくなる。

次回12月27日に佐藤千佳子(71)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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