第25回 佐藤千佳子(9) 夫婦なのに「ご主人様」「お母様」の謎
久しぶりに「お母様」と呼ばれた。
夫が携帯電話の機種変更をするついでに家族全員の料金プランを見直すことになり、千佳子がショップへ出向いたときのこと。
「お母様が現在ご契約のプランはこちらで」
「お母様とお子様がこちらのプランに変更なさいますと」
応対した男性店員は「お母様」を連呼した。ベルトが隠れるほど出っ張ったお腹と、それに引き換え淋しい頭髪。夫が太ったらこんな感じだろうかと千佳子はカウンターのアクリル板越しに向き合う店員を見ていた。
「あなたを産んだ覚えはありませんけど」などといちいち目くじら立てたりはしない。初対面の相手から「お母様」や「お母さん」と呼ばれるのには慣れているし、娘のプランとの対比で「お子様」「お母様」と呼び分けているのだろうと思っていた。ところが、
「ご主人様のプランに関しましては」
夫は「ご主人様」だった。手続きを終えて渡された契約書類にも、ホチキスで綴じた左肩に〈ご主人様分〉〈お母様分〉〈お子様分〉と書かれていた。
夫婦なのに「ご主人様」と「お母様」。
「お母様」と並べるなら「お父様」だし、「ご主人様」と並べるなら「奥様」ではないのか。千佳子から見れば「お子様」「ご主人様」ではあるから、「ご主人様」「ご本人様」「お子様」なら、まだわかる。
朝、中学校の制服に着替えている娘の文香をつかまえて、「ふーちゃん、どう思う?」と聞いてみると、「どうでもいい」と興味なさそうな反応が返ってきた。
夫は職場へ、娘は中学校へ行き、家には千佳子一人になった。キッチンに活けているミントをたっぷり使って生ハーブティーを淹れた。浮かべたミントの葉がたゆたうのを眺めながら、「奥様かお母様か」を考える。
ご主人様には「ご」がつき、お母様には「お」がつくが、奥様には「ご」も「お」もつかないことに気づいた。
「奥様」には一歩下がって控えよという響きがある。出しゃばらず、頭も腰も低く、「ご主人様」を立てる。「ご主人様」「奥様」とセットで使われると、夫婦の力関係が上下に開く感じがする。
それでも、「ご主人様」「お母様」のほうが引っかかるのは、なぜなのだろう。
娘を産んだ途端、千佳子は「お母さん」になった。赤ちゃんを抱いて外に出ると、見知らぬ人が次々と「お母さん」と声をかけてきた。
最初はうれしかった。母になることを願い続け、ようやく授かった子だったから、「お母さん」と呼ばれるたびに、母になった実感を噛みしめた。
うれしさに「なんか変」が混じり始めたのは、あちこちから寄せられた出産祝いが出揃い、授乳の寝不足と戦いながら内祝の品を選んでいた頃だ。
「お母さん、おっぱいで育ててあげてね。ミルクだと心は満たされないから」
「お母さん、早く二人目を産んであげてね。一人っ子はかわいそう」
初めて口をきく人たちが、家族や親しい友人が思っていても口にできない立ち入ったことをズケズケと聞いてきた。「お母さん」には何を言っても許される暗黙のルールでもあるのかと面食らった。
初心者で経験値ゼロなのに、いきなり「お母さん」の称号を与えられ、理想の母親像を背負わされる。いつも笑顔で、慈愛にあふれ、子どものためなら喜んで自分を犠牲にすることを求められる。
「お母さん」とセットでついてくる押しつけや決めつけが、食べきれないつけ合わせのポテトみたいに重かった。
子どもが動き回るようになると、今度はやたらと叱られた。
「お母さん、ちゃんとしてください」
「お母さん、何やってるんですか」
「お母さん、ダメじゃないですか」
歯医者でも、電車でも、デパートでも、どこへ行っても叱られた。人生であんなに叱られたことなかった。「子どもは、できなくて当たり前」で、「お母さんは、できて当たり前」だった。
文香が3歳くらいの頃、ファミレスで大泣きしたことがあった。スプーンでアイスクリームをすくおうとしたら、はじいてテーブルにボタッと落っことしてしまい、スプーンを振り上げて泣き出した。甲高い声が店内に響き渡り、刺すような視線が飛んで来た。文香をなだめながら急いで荷物をまとめ、席を立ちかけたとき、
「なんで黙らせないんだ! 母親だろ!」
大音量の泣き声をかき消す大声が降って来た。スーツにネクタイの男の人が、怒りで顔を引きつらせて千佳子を見下ろしていた。文香はいっそう声を張り上げて泣いた。
「黙らせることができるなら、苦労しませんよ」と言い返したいのをこらえて平謝りし、泣きじゃくる文香を抱き上げ、逃げるようにレジへ向かった。
覚えているのは、ひとりぼっちだと痛烈に思ったことだ。お店の人も、まわりのお客さんも、千佳子たちのテーブルから目をそらしていた。さっきまで冷たい視線を向けていたのに。迷惑をかけたのはわかっているけれど、ドンマイ、そういう日もあるよねと笑いかけてくれる人が一人でもいたら、救われたと思う。
人生であんなに叱られた時期はなかったが、ファミレス事件は花火大会のフィナーレのような派手な一発だった。文香はまたあの店に行きたいとせがんだが、千佳子は行く気になれなかった。後にその店が建物ごとなくなったとき、苦い記憶が更地になった気がして、ほっとした。
それでも「お母さんだから仕方ない」と思っていた。つわりや陣痛を引き受けたように、理不尽な痛みを引き受けた。
でも、あの日、娘をファミレスに連れて行ったのが夫だったとしたら。
スーツの男性は怒鳴り込んだだろうかと想像してみる。夫は小柄で痩せていて、見るからに腕っぷしが弱そうで気も弱そうだけど、
「なんで黙らせないんだ! 父親だろ!」
と怒鳴られただろうか。
「お父さん、ちゃんとしてください」
「お父さん、何やってるんですか」
「お父さん、ダメじゃないですか」
「お父さん、早く二人目を作ってあげてね。一人っ子はかわいそう」
どれも父親には言わない気がする。母親だから言われてきたのだと、今になって気づく。本当は、仕方なくなんてなかったのだ。「お母さん」だから仕方ないのではなく、「お母さん」だから見くびられていたのだ。
自分が引き受けてきたあれこれを夫は免れてきた。
「なぜならご主人様だから」
そうつぶやいて、「ご主人様」「お母様」のちぐはぐさが世の中の夫と妻の扱いの差なのだと千佳子は思い至る。
こんなことを考えるようになったのは、余裕ができた証拠なのだろう。ハーブティーを飲んでくつろぐ時間がなかったら、古傷のかさぶたをわざわざめくったりしない。
夫婦なのに夫は「ご主人様」で妻は「お母様」。この並びは日本独特なのだろうか。外国語にもそんな表現があるのだろうか。例えば、英語はどうだろうと考えて、パセリ先生の顔が浮かんだ。
「パセリ先生」は千佳子がつけたあだ名だ。文香の動画学習アプリの英語講師。細かいウェーブのかかった長い髪がパセリに似ている。パセリ先生は声がいいのだ。よく響く低音なので、自分だけに語りかけているような近さを感じる。ずっと聴いていたい声だ。
あの声なら「お母様」と呼ばれても許してしまいそうだが、できれば「千佳子さん」と名前で呼んで欲しい。いっそ「CHIKAKO」と呼び捨てで。
何考えているんだわたしと自分に突っ込んで、冷めたハーブティーを飲み干した。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第26回 佐藤千佳子(10)「『奥様』でもなく『お母様』でもなく『私』を生きる」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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