第114回 多賀麻希(38)ウェディングドレスを上書きする
今、わたし、どんな顔してた?
ドレスを体に当てたまま麻希が固まっていると、鏡の中のモリゾウが近づいてきた。小脇に何か抱えている。
「トルソー?」と思わず振り返ると、
「使う?」とモリゾウがトルソーを床に立たせた。
「それどうしたの?」
「ご自由にどうぞって。シューあるよ」
トルソーを抱えていたのと反対側の手に持っているケーキの箱を軽く持ち上げる。箱のふたをパティスリーの名前を刻んだシールで留めてある。
「トルソー抱えてお店行ったの?」
「ううん。シューが先。そろそろかなと思って」
「そろそろって?」
モリゾウがやかんに水を入れる音とぶつかり、麻希の声は届かなかったらしい。そこで会話は途切れたが、トルソーのおかげで気まずさは吹き飛んだ。
ドレスを軽く丸めて脇に置き、トルソーの状態を見る。古びてはいるが、汚れや埃はついていない。乾拭きしたら、すぐに使えそうだ。
ウェディングドレスを託されたことはモリゾウに話していた。何の相談をされるのかと警戒して会いに行ったら、拍子抜けするほどいい話だったよと報告した。ドレスをモリゾウの前で広げることは避けていたが、モリゾウはまったく気にしていないらしい。自分が意識しすぎなのか、モリゾウが無頓着なだけなのか。モリゾウにとっては、ドレスでもシーツでも大した違いはなく、目に留まったトルソーを持ち帰っただけなのかもしれない。
新宿三丁目のカフェにある「焙煎珈琲 然」の一枚木の看板もモリゾウが拾ってきたのだったと麻希は思い出す。ハローワークの面談を受けずに後にしたその足で、昔働いていた映像製作プロダクションがあったビルに向かい、1階のカフェの前に立てかけられた看板が目に留まった。マスターと話が弾んでバイトさせてもらうことになり、元からのバイトのモリゾウを紹介され、モリゾウはこの部屋までついて来た。
あの看板がなかったら、モリゾウは今ここにはいない。
ドレスをトルソーに着せる間にお湯が沸き、モリゾウが紅茶を淹れた。床に腰を下ろし、ちゃぶ台に向き合うと、ドレスを見上げる形になる。
「イクラ革命に結婚式のシーンがあって」
「イクラの?」
「ううん。イクラの大群が結婚式場になだれ込む」
「あー。まわりが白だと、イクラの赤が引き立つか」
目の前にドレスがあるのにドレスの話をしないのは居心地が悪くて、自分から話題を振ってみるが、結婚式のシーンにエキストラの介添一役で出ている話はしない。
パティスリーのシュークリームを最後に食べたのは、冬だった。部屋に引きこもり、鬱々としていた。布でできたやわらかなひまわりの茎に首を絞められているような日々。見かねたモリゾウに誘い出され、パティスリーまで足を伸ばした。
ケイティが盗みたくなるようなデザインを生んだことを祝おうとモリゾウは言った。呪うよりも祝うほうが幸せだからと。おめでたい慰めだと思ったが、モリゾウも過去に同じような目に遭っていたことを打ち明けられた。
あの日のシュークリームは、ごほうびの味がしなかった。自分を褒める心境には、まだなれなかった。そんな麻希を見て、モリゾウは「マキマキのバリエーションが増えた」と言った。こんな日もあるけど、いつまでも続くわけじゃないと言ってもらえた気がした。
あの日ぶりのシュークリーム。最初のひと口に身構えた。これで味がわからなかったら、人生からシュークリームを消すことになるかもしれない。
サクサクの皮を割って、濃厚なクリームが口に広がる。
おいしい。
モリゾウは麻希の表情の変化を横目で見ている。モリゾウが言った「そろそろ」は、そろそろシュークリームを味わえる頃という意味かもしれない。
「四つ葉って、踏まれて四つ葉になるんだよね」
モリゾウがトルソーのドレスを見て言った。
「そうなの?」
「傷ついて、生き延びて、四つ葉になる」
「演劇のセリフにありそう」
「あるある。真珠貝とか」
「真珠貝?」
「貝に入り込んだ異物を封じようとして、真珠ができるんだって」
キズが美しさに変わる。その話に麻希はデジャブを覚える。
教科書を燃やした話をツカサ君にしたとき、どこかでこれを美しい話にしてもらえないかという下心があった。ツカサ君が賞を取って、デビュー作が出世作になって、どうしようもない過去の自分が肯定される未来を期待していた。焼き払った裏庭に銅像でも建てるつもりだったのだろうか。教科書に火をつける少女像の。
もちろん口には出さない。シュークリームで口をふさぎ、クリームを味わう。間が持つのもシュークリームのいいところだ。
ドレスを託した田沼深雪に、あの頃の自分と同じにおいを感じている。彼女が隠して欲しいのはシミではなく、ドレスそのものではないだろうかと。
本当は気乗りしない、母親のお下がりのドレス。「生き返らせてください」と言ったのは、麻希の腕を見込んだのではなく、自分の手には負えないから、誰かに何とかして欲しかったのではないか。そんな事情込みの依頼に、傷心の無名の布雑貨作家はうってつけだったのではないか。
考え過ぎだろうか。だけど、愛着のあるドレスなら、いくら腕を見込んだとしても、初めて会った相手に預けたりするだろうか。
彼女の言うことを信じられると直感で思ったけれど、彼女はすべてを語ったわけではない。
麻希がツカサ君に過去を上書きしてもらおうとしたように、田沼深雪はドレスを上書きしてもらおうとしているのではないか。きっと、これまでも数々のことを押しつけられてきたのだ。あなたの思い通りにはもうならない。その意思をドレスで表したい。
それが作家の勝手な思い込みであっても。
針を進めるうちに、彼女のためではなく、自分のための書き換え作業のように思えてきた。
トルソーに着せようと持ち上げたドレスは、重くなっていた。ひと針ひと針を重ねた、上書きの重さだ。
返したくない、と思った。
この歳になって今さら着られないとか、今でもやっぱり着たいとか、そんなことは関係なく、ただ、このドレスをわたしの手元に置いておきたい。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第115回 佐藤千佳子(39)「ペンネーム十文字パセリ」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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