第58回 伊澤直美(20) キスしてよ脳内モルヒネ出るから
「すごく急がなくていいけど、早めにどうぞ」
電話に出た産婦人科の先生に、のんびりした声で告げられた。妊娠の診断をしてくれた女性の医師に、そのままお世話になっている。声を聞くだけで安心感がある。
「好きなものに囲まれて、産んでくれていいですよ」と言ってもらっていたので、入院のおともの応援団を引き連れて乗り込んだ。聴きたい音楽。眺めたい写真。飾りたいもの。いつもの枕。いつもの香り。アウェイじゃなくてホームで産む心強さ。
会社から駆けつけたイザオは、直美のリクエストに応えて、パンをどっさり買い込んでいた。りんごのデニッシュ。あんパン。クルミとチーズ。豆がゴロゴロ入ったやつ。陣痛と陣痛の合間に、むさぼるように食べた。
食べられるうちはまだ余裕だった。陣痛の間隔がどんどん短くなり、痛みが鋭くなっていく。破水で羊水が出て行ってしまっているので、衝撃がもろに伝わっているらしい。体を内側からハンマーで叩き割られる感じと聞いていたが、それ以上だった。ブルドーザーでこじ開けられるような衝撃だ。
イザオが頭をなでてくれ、ふわふわといい気持ちになったのに、次の瞬間、「触らないで!」と手を払いのけていた。逆毛を立てて威嚇する猫みたいだ。
「キスして!」と叫んだ。
「え? 今?」とイザオが戸惑う。先生と看護師さんがいる前でいいのかなんて人目を気にするのは追い詰められていないからだ。
「今! 脳内モルヒネ出るから!」
バラバラになりそうな体をつなぎ止めるようにイザオにしがみつき、唇を押しつけた。
甘さは一切ない、噛みつくようなキス。ねっとりと舌を絡ませた途端、麻酔が効いたように痛みがすうっと遠のいた。だが、効果は長くは続かず、脳内モルヒネが切れると、さっきよりも痛みの波は大きくなっていた。
ブルドーザーというよりマグマだ。熱い塊が体の奥でたぎり、出口を求めている。
甥っ子の幸太が亜子姉さんのお腹に描いた絵を思い出す。恐竜と一緒に火を噴く山が描かれていた。出産が火山噴火に似ていることを幸太は知っていたのだろうか。
「イザオ、代わって! 代われ!」
叫んでもイザオには代われない。先生にも看護師さんにも代われない。体力も気力も限界なのに降りられない。この子を産み落とすまでは。
何かに似ている。ボクシングだ。ボクシング映画にこんなシーンがあった。意識が朦朧となっているボクサーに、セコンドだっけ、まわりの人たちが水を飲ませたり、体を叩いたり、声をかけたりする。ボクサーはかろうじてうなずく。フラフラと立ち上がると、「よし行け!」と背中を押される。
「頭見えてきた!」
「あとひと息!」
先生と看護師さんの声が聞こえ、頭の中で最終ラウンドのゴングが鳴ったが、そこからが長かった。ゴールが見えて、最後のひと踏ん張りと力を振り絞ったのに、ゴールまでの距離が縮まらない。
高校のバレーボール部のしごきと呼ばれたアタック練習が人生で一番苦しい体験だと思っていたが、上には上がいた。
「もう無理!」と直美が音を上げると、
「赤ちゃんはもっと苦しい!」と先生がピシャリと言った。
その声に、一瞬痛みを忘れた。
そうだった。体の内側から叩き割られるような痛みは、赤ちゃんがわたしの体をこじ開けて、道を作っているからだ。わたしに、わたしたちに、この世界に会うために。
出産は赤ちゃんとの共同作業だと両親学級でもマタニティビクスでも言われたが、今の今まで自分一人で立ち向かっている気になっていた。
「赤ちゃんの力、受け止めて! 力合わせて!」
「はい!」
狭い産道をひた進むわが子の姿を思い浮かべる。
産道の1センチはお産の1時間。
あと少し。もう少し。
がんばれわたし。がんばれ赤ちゃん。
「息を吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、まだまだ吐いて! 吐いたら吸える! 吐かなきゃ吸えない!」
マタニティビクスの先生の声が聞こえ、集団タツノオトシゴ群舞のようなマタニティビクスのレッスン風景が脳内に広がる。
ダンダンダン。
ズンズンズン。
色とりどりのタツノオトシゴがステップを踏む。そのリズムで息を吐く。
ダンダンダンダン。
ハ、ハ、ハ、ハ。
ダンダンダンダン。
ハ、ハ、ハ、ハ。
イザオのキスとは違う脳内モルヒネが回っている。
「肩が出たよ!」
ダンダンダンダン。
ハ、ハ、ハ、ハ。
ダンダンダンダン。
ハ、ハ、ハ、ハ。
出口を抜けた実感がないまま、次の瞬間、お腹に確かな重みがのせられた。
赤ちゃん。
さっきまでお腹の中にいた子が、お腹の上にいた。
羊水の白いフワフワが体にまとわりついて、ぐっしょり濡れていた。その体を震わせ、泣き声を上げている。
産んだ。
生まれた。
生きてる。
「臍の緒、自分で切る?」
先生がハサミを取ってきた。
「臍の緒って、ハサミで切るんですか?」
「赤ちゃんが噛み切ると思ってた?」
赤ちゃん、まだ歯は生えてないよと先生は笑った。
イザオを見ると、顔をくしゃくしゃにして泣いている。ハサミを持つのは無理だ。直美がハサミを手にし、手だけ添えてよとイザオに言った。
臍の緒は思った以上に太くて弾力があった。もしもしギアのゴムチューブに似ていた。これからはお腹に漏斗を当てなくても、赤ちゃんに直接話しかけられる。
「この後、胎盤が出て来るからね」
赤ちゃんの後に胎盤を産む。後産(あとざん)。赤ちゃんに比べるとずっと小さいのだが、ゴールテープを切った後にもう一周と言われるような気分。
「これが赤ちゃんの入っていた袋、胎のう。破水のとき、ここが破れたのよ」
先生が指さしながら丁寧に解説してくれる。
「これが胎盤。レバーみたいでしょ」
わさび醤油で胎盤を食べたら結構いけたとマタニティビクスの先生が話していたのを直美は思い出す。わさびと醤油は持ち込んだのだろうか。食品会社の商品開発部の一員としては、胎盤の味を知るまたとない機会なのだが、今は食欲が湧かない。
小さな小さな手に人差し指をそっと近づけると、つかまえられた。思いがけず、強い力だった。
「指切り、しちゃったね」
「しちゃいました」
イザオも指切りをして、また泣いた。
イザオが泣いたから、直美は笑う。
力尽きているはずなのに、力が湧いて来る。
時計は夜中の12時を回っていた。
赤ちゃんは診察室に連れて行かれ、身長と体重を計られた。50センチ。3238グラム。思ったより大きい。
「もう少し小さく産んだら、ラクだったのかな」と言うと、
「生まれるタイミングは赤ちゃんが決めるからね」と先生は笑った。
羊水を体じゅうにつけたままおくるみに包まれた赤ちゃんと直美を入院室に残し、イザオは家に帰り、泊まり込みの看護師さんを残して、先生は同じ建物内にある自宅に引き上げた。
疲れているはずなのに目が冴えて、隣で寝息を立てている赤ちゃんを眺めていた。
お腹の中にいた子が隣にいる。
何度確かめても不思議で、うれしかった。子宮に比べたらこの部屋は宇宙ぐらい広いだろうなあと想像する。
この外に、もっと広い世界があるんだよ。
これからこの子と一緒に、世界と出会い直すのだ。そう思うと、遠足の前の日みたいに興奮して、ますます寝つけなかった。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第59回 多賀麻希(19)「長い夜が明けるまで」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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