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連載小説『漂うわたし』 第34回「夫の涙にもらい泣き」

カルチャー

 連載小説 漂うわたし 夫の涙にもらい泣き

2021.07.24

【前回までのあらすじ】共働きの夫イザオの姉・亜子に「つわりじゃない?」と言われた直美。在宅勤務に切り替え、イザオが出勤している間に妊娠検査薬で確かめようとするが、なかなか箱を開けられない。妊娠検査薬を買い求めたのは2度目で、前回は就職活動中の学生時代。当時は「妊娠してたらハズレ」だったが、今回は……。

第34回 伊澤直美(12) 夫の涙にもらい泣き

1分は待たないとしても十秒ぐらいはかかると思っていたら、一瞬だった。妊娠検査薬のスティックの小窓に、くっきりした線が現れた。「どっちだろ」と迷う余地のない圧倒的な陽性。「入ってますか?」とノックをしたら、「入ってます!」と力強く即答された感じだ。

この子、ノリいいな。

直美は咄嗟にそう思い、結果を歓迎している自分に気づく。そのとき、玄関のドアを開ける音がして、「ただいま」とイザオの声が聞こえた。まだ3時過ぎ。会社にいるはずの時間だ。妊娠検査薬をトイレの床に置いて、廊下に出る。

「イザオどうしたの? 具合悪い?」
「それ、ハラミに聞こうと思って帰って来た」
「わたし、具合悪そうだった?」
「朝、様子がおかしかったから。急に在宅にするって言い出したし、コーヒー飲まなかったし」

そうだった。いつものようにイザオが淹れてくれたコーヒーを今朝は飲まなかった。「飲まないの?」と聞かれて、「今はいい」と答えた。

「直美がコーヒー飲まないって珍しいから、どっか悪いのかなって」

すごいなと直美は感心し、うれしくなる。

わたしはおはぎとチャーハンとフライドポテトで自分の体に起きている変化に気づいたけど、イザオはコーヒーで勘づいた。

「実はね、できたみたい」
「できた?」

テーブルの上に置きっぱなしになっている妊娠検査薬の箱を手に取り、「これで調べた」と言うと、イザオが目を見開いた。その可能性は考えてなかったらしい。  

妊娠検査薬

小窓にくっきりと浮かび上がった線を見せた。

「箱に出ているサンプル写真よりも濃いね」
「うん。わたしも思った」
「意思が強そうな子だな」

イザオは早くも親バカが始まっている。

即座に濃い線が現れたのは、妊娠してから日数が経ち、それだけ検出されるホルモンの分泌量が増えているせいなのだろう。理屈ではそうなのだが、直美は「ノリがいい」と思い、イザオは「意思が強そう」と言った。妊娠検査薬の結果を、初めて受け取った子どもからの手紙みたいに眺めている。

やっぱり似た者夫婦だなと思い、直美は口元がほころぶのを感じる。今、わたし、すごく穏やかな顔をしている気がする。

乳がん健診で去年訪ねた近所の産婦人科に予約を取り、二人で受診した。医師はグレイヘアが似合う女性で、資格があれば歳を重ねても現役で働けるんだなと印象に残った。スタッフも全員女性で、いつか妊娠することがあったらここで診てもらいたいと思っていた。

あらためて検査してもらい、「おめでとうございます」とグレイヘアの医師に言われた。妊娠検査薬の結果と同じくらい、迷いのない、くっきりした口調だった。

結婚して5年になる30代半ばの夫婦。待ち望まれた第一子だと思われているのだろう。

直美とイザオも「ありがとうございます」と素直に応じた。カーテン越しに射し込む夕方のやわらかな光までが祝福してくれているように思えた。

それから赤ちゃんの心臓の音を聞き、超音波検査でお腹の中の様子を見た。夫婦で食い入るようにモニターを見つめた。

「いるよ、いるよ」
「いるね、いるね」

既視感があるなと思ったら、初めてのデートだ。水族館の水槽におでこをくっつけるようにして、二人で目を凝らして探した魚の名前は何だったっけ。

少し前まで「産む、産まない」で衝突を繰り返し、イザオが家出し、もうダメかもしれないとさえ思ったのが嘘みたいだった。けれど、あの家出があったから、仲直りの朝があり、新しい命が直美のお腹に入ったのだ。  

コウノトリ

「なんか食べてく?」

産婦人科からの帰り道、イザオに聞かれた。

「うちで食べたい」
「じゃあ、リストランテ・イザオで食べるか」

イザオの提案に乗った。

「何食べたい?」
「シェフのお任せで」

スーパーに立ち寄り、イザオが食材を調達するのにつき合いながら、直美の目は子ども連れの客を追っていた。首の後ろまで支える抱っこ紐で縦抱きされた赤ちゃんを見て、何か月くらいだろうと想像した。出産予定日は1月の半ば。もしかしたら、同じ学年になるかもしれない。同じスーパーに買い物に来ているということは、同じ学校に通うことになるかもしれない。

イザオが10個入りの卵をカゴに入れようとして思い直し、割高な6個入りの赤玉の卵にした。赤ちゃんの今のサイズは、頭のてっぺんからおしりまで、だいたい30ミリ。体重は約10グラムだと言われた。Mサイズの卵1個が約50グラムだから、それよりもずっと軽い。うずら卵ぐらいだろうか。

いつも通っているスーパーの見慣れた風景なのに、見え方がまるで違っている。お腹に子どもが入る前と後で、世界はこんなにも変わるのかと驚いた。

企画開発を手がけたレンチンシリーズのお惣菜が並ぶ棚の前に立つと、不意に涙ぐんでしまった。「どうしたの?」とイザオが心配そうに顔をのぞき込む。

「親の気持ちになって商品見てたら、涙出てきた」

直美がそう言うと、イザオも直美の隣に立って商品棚を見つめた。

「涙出ない?」
「俺は商品開発やってないしな」

システムエンジニアのイザオは、ちょっと残念そうに言った。「自社製品を見て、泣けるかどうか」なんて会話を交わす日が来るとは。卵よりも小さな存在が、わたしの体を変えて、見える世界を変えて、夫婦の会話まで変えてしまっている。

ラザニア

リストランテ・イザオのおまかせメニューはカラフルだった。色の濃い野菜が主張するサラダ、豆たっぷりのスープ。ナス入りのラザニア。

「亜鉛を積極的に摂ったほうがいいらしいから、肉とチーズ増量した」とイザオが説明を添えた。

「それでサラダにアーモンドを散らしてるんだ?」
「お、詳しい」
「食品メーカーで商品開発やってますから」

グラスに乾杯のワインを注ごうとしたイザオの手が止まった。

「お酒、いいんだっけ」
「わたし、水にしとく」
「じゃあ俺も」
「いいよ。イザオはお酒飲んでよ」
「俺、ハラミと同じものを飲みたい」

妊娠したらお酒を飲めなくなると直美が言ったとき、俺も我慢するとイザオが言った。自分が我慢するから夫にも我慢を強いるのは違うなと後から思った。分かち合って欲しいのは我慢ではなく、気持ちだった。妊娠に踏み出せない不安や葛藤に寄り添って欲しいだけだった。

ワイングラスに水を注いで乾杯し、ゴクゴク飲んだ。水分を十分に摂ってくださいねと医師に言われたが、お腹の中からもせっつかれている。

「ごめん。やっぱりお酒飲みたい」

イザオが言った。

「いいよ。わたしの分も飲んでよ」

直美は笑ってイザオのグラスにワインを注いだ。

亜子姉さんの2人目妊娠がわかったとき、「私の分も働いてよ」と言われて反発したのを思い出す。あのときの亜子姉さんも、今みたいに何の気なしに言ったのかもしれない。妊娠したら失うと思っていたことのいくつかは、妊娠すると欲しくなくなるものなのかもしれない。飲みたいお酒を我慢するのではなく、お酒より水を飲みたい体になっている。

「今、これくらいの大きさかな」

イザオがサラダに入っているプチトマトを箸でつまみ上げた。

「もう少し大きいかも」
「卵よりは小さいよね」
「わたし、さっきスーパーで、Mサイズの卵より軽いなって思ってた」
「それが、こんなになるんだよな」

イザオが両手で新生児の大きさを作った。

「生物の授業でやったけど、受精卵から細胞分裂して大きくなるって、こういうことだった……」

イザオの語尾が消えたと思ったら、涙で言葉が詰まっていた。

「どうしたの?」
「いや、なんか……ほんとにできたんだなって」

食べづわりで存在を主張されてきた直美より遅れて、ようやく実感が湧いたらしい。

イザオの目にこみ上げた涙が滴になって落ちるのを見て、直美の目にも涙がこみ上げる。イザオの涙を押し上げているのは、うれしさだけではないのかもしれない。緊張や不安が解かれて安堵したときにも涙腺はゆるむ。

こうしている今も、直美のお腹の中でどんどん大きくなっている存在に想いを馳せた。お腹を出てからも成長は続く。直美とイザオの世界の見え方を変え、夫婦の会話を変えていく。

妊娠するって、未来がお腹に入ることだったんだ。

直美の涙に気づいたイザオが、また涙をこぼす。「イザオ、泣きすぎ」と笑いながら、直美もまた泣く。水でこんなに気持ち良く酔えるなんて知らなかった。

 

次回「シュークリームが膨らむ予感」に続く

イラスト:ジョンジー敦子

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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2021年「ミヤコが京都にやって来た!」(ABCテレビ)と「アイカツプラネット!」(テレビ東京)に参加。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。短編小説「膝枕」が音声SNSのClubhouseで朗読リレーと二次創作リレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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