第144回 多賀麻希(48)わたしを納めるうつわ
今より広い部屋は今より古く、今より新しい部屋は今より狭かった。
今のアパートの家賃で物件検索をかけた結果だ。
今の家賃より2割アップを予算の上限にして検索し直すと、今住んでいるアパートの空き室がヒットした。同じ階で、同じ間取りで、更新後に提示されている家賃になっていた。
家賃の大幅な値上げは立ち退きの前触れだと新宿三丁目のカフェのマスターは息巻いたが、単純に相場より安すぎる現状を見直しただけではないかというのが検索結果を見た麻希とモリゾウの感想だった。
取らぬ狸のなんとやら。立ち退きを持ちかけられたら大家都合ということで引っ越し費用や転居先の敷金礼金、さらには家賃も何か月分か出してもらえるかもという目論見は外れた。今より条件の良い部屋に引っ越すには、今よりかなり予算を上げる必要があるらしい。
とはいえ掘り出し物があるのではと宝探しをする気持ちで物件の詳細リンクを開いていくと、
あった。
駅からは遠くなるが、築年数は5年で床面積は今の2倍以上。間取りは2LDK。寝室とアトリエを確保できる。
「ここ、すごく良くない?」と麻希が飛びつくと、
「でも、安すぎない?」
二人羽織のように麻希の外側から両手を回してパソコンを操作しているモリゾウがブレーキをかけた。
「価格改定ってなってる。なかなか決まらなくて値下げしたってことは、ワケアリかもしれない」
安すぎる。たしかに。何かあるのではと勘繰りたくなるほどに。
「事故物件かも」
麻希が映画製作プロダクションで働いていたときに関わったホラー映画が、そういう設定だった。主人公は新婚夫婦で、お金がなくて選んだ格安物件で幽霊との同居が始まってしまう。
「事故物件は避けたほうがいい、よね?」と麻希が言うと、
「日当たり、どうなんだろ」とモリゾウは物件の所在地を地図で確認していた。
「あー、両隣と裏にマンション建ってる」
日当たりは期待できなさそうだ。値段が安いのはそのせいもあるかもしれない。
「日当たり、大事」
麻希が言い、モリゾウがうなずく。
薄暗いアトリエは、いただけない。
日当たりの良さも今の部屋を気に入っている理由だった。冬の晴れた日は部屋の奥まで陽が射し込み、サンルームみたいにぽかぽかしている。そのひだまりの中で、モリゾウのあぐらの内側に入り、ふたりでパソコンを覗いている。
モリゾウが来てからかもしれないと麻希は思い直す。日当たりの良さがうれしくなったのは。
ひとり暮らししていた頃は、ひだまりの外にいた気がする。
「日当たりが良かったら、事故物件でも良かった?」
「そしたら幽霊は出ないかなって」
モリゾウが真顔で言ったのがおかしくて、ふたりで笑い合い、「日当たり、大事」とあらためて確認し合った。
「今より広くて、新しくて、駅近で、日当たりもいい。そんな物件ないよね?」
「あるところには、ある」
モリゾウが「日当たり」を条件に入れ、予算の上限を取っ払って検索し直すと、ひと月48万円という高級物件がヒットした。分譲物件を賃貸に出しているらしい。
通りに面した角部屋。駅から徒歩3分。間取りは3LDK+WIC。
「WICって何だろ」と麻希は考え、
「ウォーク・イン・クローゼット」と答えを出す。
「ウォーク・イン・コーヒーかもしれない」とモリゾウがふざける。
「ドライブスルー的な? ていうか英語的に合ってる?」
「WATER IS CLEAN」
モリゾウが英語講師らしいきれいな発音で言った。
「それってウォーターサーバー?」
「WHERE IS CANADA?」
「カナダは部屋に入りません!」
部屋探しハイになっている。どうせ借りられない予算大幅オーバーの部屋なんて、大喜利のネタにするのがちょうどいい。
広さは70平米。家賃の分だけ広くなるというよりは、セキュリティや水回りや作りつけのワードローブなどの一つ一つのグレードが上がる感じだ。
オートロック。宅配ボックス。コンシェルジュ。今のアパートにはないものが備わっている。ベランダには水道がついている。ガーデニングの趣味なんてないけど、こういう部屋に住んだら花でも育ててみようという気持ちになるのかもしれない。
「余裕があるなら、こういう暮らしもいいかもしれないけど」
「けど」で麻希が区切ると、モリゾウが言った。
「ビジネスクラスとエコノミークラスの違いみたいなもんかな」
そうかもと麻希は思う。きっと差額分の値打ちはあるのだろうけれど、わざわざそこにお金かけなくてもいいというか、お金かけるならそこじゃないというか。
今より広くて、今より新しくて、今より駅近だけど、ときめかない物件があることを学んだ。
入れものと中身が合っていないんだろなと麻希は思う。
ブランド物で仕立てはいいしサイズも合っているのに似合わない服を着たときの、自分と服が浮き合っているような、これじゃない感。
服飾専門学校で「衣服は収納」だと口酸っぱく唱える先生がいた。ファッションである以前に収納機能を果たさなくてはならない。暑さや寒さや摩擦や引っかかりに邪魔されず、中身である身体が快適に「納まる」ことがまず大切なのだと。
衣服が収納なら、住まいも収納だと言える。
わたしたちは、わたしたちの入れものを探している。
月48万の部屋のフォトジェニックなアイランドキッチンをぼんやり眺めながらそんなことを考えていると、「ベッド特集」のバナー広告が現れた。奥行きのある写真にスタイルの違うベッドがずらりと並んでいる。
ベッドも、わたしたちを納める入れものだ。
おままごとのベッドのように見えるのは、画像の小ささのせいもあるかもしれない。おもちゃ箱の中身みたいと麻希は思ったが、
「マッチ箱みたいだな」とモリゾウは言った。
麻希は『マッチ売りの少女』の童話を連想する。マッチを一本ずつ擦って夢を見たヒロインのように、マッチ箱みたいに並んだベッドの一つ一つに自分とモリゾウを置いてみる。そこで眠ったり、起きたり、おしゃべりしたりする自分たちを想像する。
おしゃべり。
体を交えることをそう呼んでいた時期があった。「おしゃべり、する?」のように、ふたりだけに通じる使い方をしていたが、すっかり使わなくなった。「おしゃべり、する?」と照れながら意思を確かめていた頃があったなんてことさえモリゾウは忘れているかもしれない。もし今、「おしゃべり、する?」と聞いたら、「してるじゃない?」と言われてしまいそうだ。
受け止めてもらえない恥じらいほど、恥ずかしいものはない。
新婚とはいえ、ふたりとも40代で、いっときお盛んになったのは季節外れに咲いた桜のようなもので、落ち着いたほうがいい年頃だ。年に数回、ほどほどに、衣替えぐらいの頻度が適量なのかもしれないとは思いつつ、わたしたちのあれはおしゃべりなんだから、コーヒーブレイクみたいにもっと日常に溶け込んでいてもいいのではと思ったり、特別な位置づけにするにはムードが足りないのかなどと原因に思いを馳せたり頭の中は忙しい。
「ベッドを買おう」
それがおしゃべりを呼び覚ます最善策であるかのように唐突に思い立ったのと、
「春は弾んでスプリング」
と言うモリゾウの声が重なった。
頭の中が春になっているのを見透かされたようで、麻希はドキッとする。
「なにそれ?」
「英語のスプリングって、いろんな意味があるんだよ。春。ばね。弾む」
モリゾウは英単語の語呂合わせを語り、麻希はスプリングのきいたベッドをふたりで揺らしたいと不埒なことを考える。上半身と下半身で会話しているみたいだと思って、おかしくなる。
「何?」
今面白いこと言ったっけというニュアンスでモリゾウが聞く。
返事の代わりに、麻希は体をねじり、モリゾウの顔を引き寄せ、キスをする。モリゾウは軽く応じて、追いかけて来ない。キスがしぼみ、おしゃべりにつながらない。立ち消えパターンだ。
一瞬くっついた唇の思惑は別々で、違うことを考えている。だけど、なじんでいる。しっくり来ている。
わたしは今、この人に納まっている。
モリゾウのあぐらの内側でそう思う。この人と結婚したんだというひだまりのような感慨が胸の奥に広がった。
次回1月27日に佐藤千佳子(49)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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