
第222回 多賀麻希(74) 未来から逃げてる
「就職って?」
聞き返した麻希の声が上ずった。
動揺した脳裏に書きかけの履歴書の記憶が蘇る。
派遣切りに遭った39歳の誕生日。10年ぶりに書いた履歴書。10年前の書き損じの履歴書を引っ張り出したら、10年若い自分の顔写真が貼ってあった。
わたし、何やってたんだろ。
なくしたものの大きさと引き換えに手にしたもののちっぽけさに打ちのめされた。膨らんだ空しさに押し出された涙が履歴書に落ちて滲んだ。
10年ぶりに書いた履歴書の出番はなかった。
ハローワークから引き返した足で向かったのは、20代の頃に働いていた映像製作プロダクションが入っていた新宿三丁目の雑居ビル。出前のコーヒーを頼んでいた1階のカフェは別な店になっていて、「焙煎珈琲 然」と書かれた一枚木の看板がドアの脇に立てかけられていた。
カウンター席で大阪弁のマスターに話を聞いてもらううちに意気投合し、その店でバイトすることにした。
あの日、麻希が見つけたのは、仕事だけではなかった。
麻希がバイトを引き継ぐことになった青年をマスターが呼び出し、引き合わせた。「焙煎珈琲 然」の看板を拾ってきた彼は拾われ上手でもあった。麻希の部屋までついて来て、そのまま居着いた。
それがモリゾウだった。

年下に見えたモリゾウは、今思えば年齢不詳だった。年相応の疲れや諦めが積もっていなかった。バイトを続けられなくなったのは演劇が忙しいからだと思っていたが、ある日、動画学習サービスの画面に英語講師の武田唯人として現れた。
まとまった稼ぎがあるのに家賃も入れず食費も出さずヒモのようなことをしているのかと不信感が募った。麻希を食い物にしてきたこれまでの男たちと同じだったのかと失望した。
だが、モリゾウが麻希に甘えていたのは、借金を抱えていたからだった。借金を完済してからは、支払いの場面ではモリゾウが出すようになった。
オンライン講師がどういう契約になっているのか、時々引き受けている翻訳の仕事でどれくらい稼いでいるのか、具体的な金額は聞いていない。ふんわりぼやかした現実に数字で輪郭を持たせてしまうことをなんとなく避けてきた。
出会ってから5年と4か月。モリゾウの口から初めて「就職」という言葉を聞いた。
「めろんに前から誘われてて」
めろん。
その名前も久しぶりに聞いた。モリゾウの演劇仲間のめろんぐらっせのことだ。最後まで残った3人のうちの一人。もう一人は高低差太郎、またの名を古墳王子。
めろんとは面識がないが、縁がある。麻希の恋人だったツカサ君が書いた脚本をモリゾウに見せたのが、彼だった。
タイトルは『制服のシンデレラ』。
ヒロインのモデルは麻希だ。コンクールでなかなか結果を出せないツカサ君が「僕の人生が薄いから、薄いものしか書けないんだよね」と薄い体を折り曲げて落ち込んでいたから、薄くないネタを提供したのだ。教科書を燃やした炎が家の裏庭を更地にしてしまった田舎町の女子高生のイタい話を。

めろんがモリゾウに渡した脚本には『茜色の空の下で』というタイトルがついていた。後になって「タイトルがつまらんもんは中身もつまらん」と麻希が当時働いていた映像製作プロダクションの社長が入れ知恵し、ツカサ君が出した代案が『制服のシンデレラ』だった。
初めて最終選考に残ったその作品は、タイトルだけが評価され、真っ先に議論の対象から脱落した。
山形に帰ると決めたツカサ君を、麻希は引き止めることも追いかけることもしなかった。ツカサ君一人分の存在と荷物と音が部屋から消えた。ツカサ君の声が消えると、ツカサ君に話しかけていた麻希の声も消えた。
「嫁さんの実家の工務店に入ったんだけど、今度、正式に継ぐことになって、俺に片腕になって欲しいって」
モリゾウがめろんの話を続けている。
めろんは結婚を機に演劇から離れたらしい。以前、モリゾウが「めろんは抜けたっす」と言ったとき、納得していない口ぶりだったのを思い出す。
「そろそろ区切りをつけようかなって」とモリゾウが言う。
「そろそろ?」
麻希が聞き返すと、モリゾウは小さなため息を返してきた。
ツカサ君が山形に帰ったのは、旅館を切り盛りしているお父さんが倒れたからだったが、東京にしがみつくのをやめる理由を探していたようにも思う。
「勤め人になると時間を取り辛くなると思ってたけど、むしろ埋めたほうがいいなって」
「時間を埋めるために就職するの?」
モリゾウは答えない。
モリゾウが埋めたい時間は待ち時間なのだと麻希は察する。
モリゾウが戯曲デジタルアーカイブに登録した『たとえこの雪が溶けてしまうとしても』が公開されて、4か月経った。その間、問い合わせは一件も来ていない。かつて放送されたドラマと似ていると指摘する声も上がっていない。
舞台の初演から半年ほどして放送された連続ドラマ『雪だるまの涙』の内容が酷似していた。ドラマのプロデューサーは舞台を見ていた。招待したのは高低差太郎で、彼を「古墳王子」として売り出したのが、『雪だるまの涙』の後、ドラマ部からバラエティ部に異動になったプロデューサーだった。

「勝手に盗まれて、いじられて、俺の知らないところで、俺の意図しない形で、作品が一人歩きする。それはもちろん辛いし、えぐられるんだけど、それ以上にきついのは、盗まれて一人歩きしている作品のせいで、元の作品が追いやられ、忘れられていくことなんすよ。埋もれたままだと存在しないのと同じなんすよ」
戯曲を公開することにしたモリゾウの悲痛な叫びは、まだ誰にも届いていない。
モリゾウは待つことに疲れ、その空白を埋めようとしている。叶わない恋を忘れるために好きでもない人と体を重ねるように。そんなことをしても空しさが積もるだけなのを麻希は知っている。
「お金のためって言うんだったら、わかる。野間さんが帰国したら、この家を出なきゃいけないわけだし、蓄えは作っておいたほうがいい。でも、時間を埋めるために就職するのは失礼だよ。めろんさんにもモリゾウにも」
「俺にも?」
「モリゾウ、今、何書いてる?」
モリゾウは答えない。今は何も書いていないことを沈黙が語る。
「『棺に入る分だけ残しなさい』。覚えてる?「いつかセリフで使いたいって言ってたよね?」
モリゾウは首だけでうなずく。
「わたし、MRIの機械に入ったとき、思い出してた。棺の中ってこんな感じかなって思って。物を捨てられないのは過去への執着と将来への不安があるからって占い師さんに言われたけど、わたしが手術をためらってたの、執着じゃなくて不安のせいだった」
「……」
「胆のうを取ったら何かが変わってしまうんじゃないか、胆のうを取っても何も変わらないんじゃないかって、未来から逃げてた」
「……」
「ずっとドレスを作れてないのも、同じかも」
「……」
「いらないものを手放したら必要なものが入ってくるって言われたのに、引っ越しても相変わらず擦り減るばかりの毎日だった。派遣切りに遭って、ぽっかり時間が空いて、空しさが押し寄せて、どん底まで落ちたときにモリゾウが現れた。布雑貨作家になる道を作ってくれて、作品を引き出してくれた、詩みたいな言葉を添えて、値段をつけてくれた。なのに、ひまわりバッグがあんなことになって」
「……」
「新しい作品で上書きしたいのに、踏み出せない。次の作品は、もっと失敗できないから。今のモリゾウと似てない?」
「……」

「『たとえこの雪が溶けてしまうとしても』が埋もれているのはもったいないし、光が当たって欲しい。でも、モリゾウには、もっと評価されていい作品があると思う。まだ生まれてないけど」
「……」
「時間はある。でも、限られてる。わたしたちは一歳ずつ確実に歳を取って、手持ちの時間は減っていく。モリゾウの時間を、埋めるためじゃなくて、生むために使って欲しい」
「……」
「書いてよ。わたしはドレスを作るから」
「……そのドレスに名前をつけるとしたら?」
モリゾウがようやく口を開いた。
「モリゾウが次に書くものと同じかも」
麻希はそう言って、もう一度テーブルの上の胆石に目をやる。烏の濡れ羽色をした黒真珠みたいな石。その上空でモリゾウと視線が交差した。

次回5月16日に佐藤千佳子(75)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!
