
第218回 佐藤千佳子(74) 何もしないを楽しむ
どの大学を受けるか、千佳子は文香に任せていた。担任と進路指導の先生にも相談できているし、受験事情に明るくない母親の出る幕ではないと心得ていたから。
夫は大学の研究室に勤めているが、受験には明るくなく、文香が文系ということもあり、やはり口出ししないスタンスだった。
高校入試のときも本人任せで第一志望に合格できたし、大学入試も同じ感じでうまく行くと思っていた。
だが、共通テストが終わり、「東大を受ける」と文香が言い出したときは、千佳子も夫もさすがに動揺した。これまで文香が口にした志望校の中に東大はなかったからだ。
実は模試の合格判定には出していたのだと文香は言った。
最初は冗談みたいな気持ちだったが、E判定がD判定になり、冬休み前にC判定に浮上し、合格の可能性が見えてきた。共通テストの結果は前年の足切り点を20点ほど上回っており、一次試験よりも二次試験のほうが強いので、挑戦する価値はあるのだと。
千佳子と夫を前に決意を述べる文香の言葉に迷いはなく、ひょっとしたらと期待させる力強さがあった。
私学も3校5学部に出願していた。そのうち2学部でA判定が出ていた。
文香の挑戦を止める理由はなかった。

私学の合格を勝ち取った上で東大に挑む予定だった。
ところが、次々と届いた結果は、どれも不合格だった。足切りは免れたものの足切り点は前年より高くなっていて、文香の点数はぎりぎりだった。
二次試験当日、千佳子は試験会場まで見送ったが、別れ際に握った文香の手は冷たく、弱気を伝えるかのように震えていた。ご縁はないかもと頭に浮かんだ考えを千佳子は咄嗟に振り払ったが、その予感は当たってしまった。
アムステルダムの野間さんのアパートに着いてから、文香は窓の外の景色を描き留めている。水を含ませた絵筆で水彩色鉛筆の線をなぞると、絵の具のように色が広がる。
受験の結果も塗り替えられたらいいのに。
「元気そうで良かった」
野間さんも文香に視線を注いでいる。
「旅行入れてて良かったです。場所が変わって、いい気分転換になったみたい」
「私が言ってるのは佐藤さんのこと」
野間さんが千佳子に向き直った。
「日本を脱出して正解。きつかったでしょ?」
文香に聞こえたらと焦ったが、文香は絵を描くことに没頭している。
「野間さん、ちょっと」と千佳子は席を立ち、「あっちで話しましょう」と目で促す。野間さんも察して、「わかった」と目で応じ、飲み終えたティーカップをトレーにのせて席を立った。
窓辺のテーブルからキッチンに引っ込み、野間さんが洗った食器を千佳子が拭きながら話を続ける。
「何してたのって言われちゃったんです」
「美枝子ちゃんに?」
野間さんは千佳子の夫の母を「美枝子ちゃん」と呼ぶ。家出して転がり込んだ義母を千佳子が持て余したとき、一人暮らしの家で同居を引き受けてくれ、意気投合した。
「いえ……義母はどちらかというと、背中を押した側なので」
「何してたの?」と千佳子に言ったのは、ママ友だ。
ママ友と呼んでいいのかどうかも迷う。子どもの幼稚園が一緒だった晴翔くんママと銀牙くんママと悠真くんママ。
最後に会ったのは、文香が中学1年の冬だった。華やかなネイルや美容の話題についていけず、なんでここにいるんだろという居心地の悪さを感じ、ランチボックスの隅に取り残されたパセリに自分を重ねていた。

もう会うことはないだろうと思っていたのに、子どもたちの高校卒業に合わせて集まりましょうよとまた声がかかり、またしても断れず、場違いなテーブルを囲んでしまった。
「文香ちゃん、いいとこ行ったんでしょ?」
文香が進学した高校のことは伝わっていたらしく、あそこは進学校だしねと期待の目が千佳子に集まった。
「実は、浪人することになりそうで」
「どこを受けたの?」と聞かれたので、「東大」と答えると、どよめきが起こり、「一年では決まらないわね」と納得されたが、
「浪人させるつもりはなかったんですけど、私学を3校5学部も受けたのに全落ちで」
千佳子がそう言った途端、テーブルにしらっとした空気が降りた。高望みの国公立を狙って現役で決めたいなら、3校5学部では少な過ぎるし、国公立の後期も出してないなんてギャンブルすぎる。よくそれで塾が受けさせたねと呆れられ、「塾は行ってなかったので」と言うと、ますます呆れられた。
「文香ちゃんママ、何してたの?」
晴翔くんママに聞かれ、千佳子は答えに詰まった。

「もっと、親として、できることがあったんじゃないかって。今さらですけど文香に申し訳なくて」
ママ友たちには言えなかったあのときの気持ちをアムステルダムの野間さんに打ち明ける。
「何もしてなかったわけじゃないよね。文香ちゃんを信じてた」
「でも、信じきった結果があれなので……。もし、時間を巻き戻せるならって思ってしまうんです」
「佐藤さんは気にすることないよ。文香ちゃんの受験なんだから。ていうか、なんでよそのママが首突っ込んで説教するわけ?」
「それだけ取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかなって」
「何言ってんの? たかが受験じゃない?」
野間さんが何を言っても気休めにしかならない。よその子の受験に口出しするママ友もきついが、「たかが受験」と言い切られるのもきつい。
「そんな風に思えるのは、野間さんがオランダにいるからじゃないですか」
「佐藤さんも今、オランダにいるよ」
「それはそうですけど‥…」
「そうだよ、ママ!」
文香が会話に加わり、千佳子はハッとなる。
「ふーちゃん、いつから聞いてたの?」
「だいたいずっと聞こえてた」
千佳子は「しまった」と思うが、野間さんは平気な顔をしている。聞かれて困るようなことは言ってないしという顔。
「受験については、実力不足なのかリサーチ不足なのかわからないけど、ママができることはやってもらったって思ってるし、好きなようにやらせてもらえて、オランダまで連れて来てもらえて、感謝してます。日本にいたら照れ臭くて言えなかったけど、オランダだと言えちゃうね。4月からどうしようかなっていうのは日本に帰ってから考えるとして、とりあえず、明日何する?」
文香は一気に明るく言った。
「風車見に行くのもいいかなって話してたんだけど」
千佳子の言葉に、野間さんが続けた。
「文香ちゃんは何かしたいことある?」
「オランダらしいことがしたいです!」
「じゃあ、ニクセンする?」
ニクセン?
初めて聞く言葉だが、千佳子は「に苦戦」と脳内で変換してしまい、苦笑する。
「近所の公園でニクセンしてもいいし、キンデルダイクでニクセンしてもいいし。キンデルダイクっていうのは、風車がたくさんあるところね」

「ニクセンって何ですか?」と文香が聞く。
「なんだと思う?」と野間さんがもったいぶる。
「スポーツですか?」
「スポーツとは逆かな」
「ニクが入ってるからバーベキューとか?」
文香が笑いながら言う。ニクセンと聞いて苦戦ではなく肉を思い浮かべるのがたくましい。
「アウトドアじゃなくても、どこでもニクセンできるよ。家の中でもできるし。できるって言っていいのかな」
「なんだかなぞなぞみたい。ますますわかんない」
そう言いつつ文香は楽しそうだ。
「この答えが出ない感じもニクセンかも」と野間さん。
「もしかして、ニクセンって、だらだらするってことですか?」
「文香ちゃん、鋭い。ニクセンというのは、何もしない、何も生み出さないこと」
野間さんはそう言ってから、続けた。
「その時間を楽しむこと」

次回4月4日に伊澤直美(73)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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